北米留学上級技術マニュアル - 日本語教師をめざす人の為の留学情報
目次
- 日米の日本語教育の違い
- 絶対やっておきたい日本語TA
- 学会で顔と名前を売る
- Teaching portfolio
- 頭うちの大学日本語教育
- 有資格者は売れる
- 日本語教師になるのに有利な専攻
- 日本語専攻課程の構想
- 応用文学?
- 研究費は少ない
- 業績を残す
- 教授技法の論文
日米の日本語教育の違い↑
北米での日本語教育は初級クラスの場合、説明に英語を使うのが当然とされているが、日本での日本語教育は、学生の母国語が多様な場合が多いので、日本語のみによる直接法が主流である(国際基督教大学など、英語圏との結び付きが特に強い大学は例外)。したがって、日本から 北米、逆に 北米から日本へ移ると、非常に苦しい思いをするものらしい。
絶対やっておきたい日本語TA↑
将来日本語教師になりたいのなら、大学院在学中に経験を積んでおいた方が断然有利である。おのずと、TAとして日本語を教えるチャンスのある大学に的を合わせるべきことになる。TAのチャンスは州立大学のほうが多い。(私立では、筆者の知る限りCarnegie Mellon University とColumbia UniversityとCornell UniversityがTA制度をとりいれている。)
最初のきっかけを掴む↑
経験者の方が仕事をもらいやすいのは当然だが、逆にどこかで教えはじめないことには経験も積みようがない。大きな日本語プログラムのある州立大学では、TA志望者は最初の1〜2学期間、日本語教授法の授業を受講し、そこで頭角をあらわした者が試験的に採用される、というシステムをとっていることが多い。こうすれば、たとえ未経験者でも一応は経験者と同じ土俵で競うことができるわけである。ところが、こういうTA養成システムが整っていない大学の場合、他所で経験や訓練を積んだ人が探され、たまたまそういう人が大学院生の中にいなければ、全くの素人を採用しなければならない場合すらある。したがって、たとえ短期間でもどこかで訓練を受けた人の方が断然有利である。手っとり早くそういう訓練を受けようと思えば、夏期などに開かれる短期集中の日本語教師養成講座に出ておかれるとよかろう。主なところでは、
- Workshop for the Teaching of Japanese at Hakodate (北海道函館市)
- Japanese Teacher Training Workshop (Cornell University)
- Exchange Japan - Teaching Japanese as a Foreign Language
- Portland State University - Teachers of Japanese Workshop
多くの場合、英語話者を対象とする日本語集中講座が併設されているので、そういう場で教育実習の機会も積める。なお、この4つのうち、函館プログラム以外はいずれも米国内で開かれ、Elenor Jorden 教授が開発したJorden Method (初級段階ではかな漢字を用いず、ローマ字表記で音声中心の訓練をする教授方法)を軸にしている。
Jorden Methodに基づいた教科書、カセットテープ、CD-ROM(Yale University Press)、さらには教師養成のシステムまで一式揃っていて、見方によっては一種のコングロマリットだとも言える。そういうやり方で教授法訓練を受けたというと同じやり方を採用している大学では仕事がもらいやすいが、反面、日本語教育界ではそれに批判的な立場に立つ人達も少なからずいることは、一応頭に入れておいた方がいいだろう。
もちろん、函館プログラム以外にも、各地のカルチャー・センターを含め日本国内で各種の日本語教師養成講座が開かれている。ただし、それらの多くはアジア各国からの留学生や移民を対象とした直接法に重きをおいていることと、必ずしも実習の機会が充分でないものもあることには注意をはらう必要がある(理論だけは知っていても全く経験のない人を雇うというのは、勇気のいるものである。)
夏は経験を積むチャンス↑
夏は、全米各地で集中語学講座が開かれる。主なところをあげると、Middlebury College, University of Michigan at Ann Arbour, Indiana University, Monterey Institute of International Studiesなど。そういうところでは、大学院生を講師として雇うので、フルタイムの指導経験を積むチャンスになる。日本でも、三鷹の国際基督教大学や彦根のミシガン州立大学連合日本センターなどはやはり夏期日本語講座を開いて、海外からも講師を受け入れている。将来アメリカで就職したいなら、やはり夏はMiddlebury Collegeで教えるのが一番の登龍門であろう。
学会で顔と名前を売る↑
一つの大学がキャンパスに呼んでインタビューできる候補者の数には限りがあるし、予算の乏しい大学だとその費用もなく、書類選考と電話インタビューだけで決めてしまわなかればならない場合もある。そんな時、以前何かの機会に会ったことがあって、まず間違いのない人物だとわかっている候補をとりたくなるのが人情である。したがって、日本語教師が集まる場にはこまめに出かけていって顔と名前を売るにこしたことはない。就職の年になってから慌てて繰り出すのでなく、大学院生時代の早い段階から、下見をかねて出かけていくことをお勧めしたい。
今のところ北米圏における日本語教師の最大の集会は、Association for Asian Studies (AAS) の年次総会にあわせて開かれる、Association of Teachers of Japanese (ATJ) のThursday Seminar(毎年、総会初日にあたる木曜日の夕刻から開かれるのが恒例なのでその名がある)であろう。教授法に関心の深い先生は、The American Council on the Teaching of Foreign Languages (ACTFL)にもやってくる。しかし、AASやACTFLは数千人規模とばかでかいため、ともすれば群衆の渦にのみこまれてしまい、個人的に親しくなる機会がかえって少ない。誰もがコネをつけたいようなえらい先生のまわりには人が群がって、近寄ることすら容易でない。むしろ、もっと小規模なワークショップやセミナーの類の方が雰囲気も家族的で、1〜2日の学会が終わるころには、かなり色々な人と話すことができるようになる。こういう情報はAssociation of Teachers of Japanese のnewsletterや日本語教育関係のe-mail listにも布告されるが、主なものだけ紹介しておくと、
- Lake Erie Teachers of Japanese Conference (4月)
- Princeton Pedagogy Workshop (5月)
- New England Region Japanese Teachers Workshop (6月)
不思議なことに、こういう催しは春から初夏に集中していて、秋冬にはほとんどない。Regional Meeting とはいえ、必ずしもこの近隣地域に居住している必要はなく、遠隔からの参加を認める場合もあるから、興味があれば主催者に問い合わせてみられたい。いずれにせよ、せっかくこういう学会に出るならその機会に発表もしたいものである。日頃しっかり研鑽を重ねていることをアピールする格好の機会である。真剣に研鑽に励んでいることが相手に伝われば、親切に色々アドバイスしてくれる先輩も出てくる。こういうregionalな学会はProceedingsを出すことがよくあるから、あわよくばpublication listに業績を追加することもできる。(ご参考までに、体裁のいいProceedingsを出すのはお金のかかるもので、スポンサーを探す苦労も学会主催者の仕事の一部という場合があるのだそうである。)
Teaching portfolio↑
教授経験年数や担当した科目の数と種類に大きな差がないとなれば、それをいかに効果的にアピールするかが採否の別れ目になる。教師としての実績、実力、研鑽ぶりを売り込む手段として、近年北米の大学教育界ではteaching portfolioなるものを作るのがちょっとした流行になっている。これは簡単にいうと、自分の教育哲学/方針の宣明書、自己開発した教材や教案、学生や同僚からの評価、教授法に関して受講したコースやワークショップのリストなどを収めたファイルのことである。職探しともなれば、適宜このファイルを編集して応募書類に同封するわけである。こういうファイル作りは、仕事を探し出してから急にはじめるのでなく、語学教師をめざした時から開始するのが望ましい。こういうファイルを作ることによって、自分の経験・技量の中で不足している部分も見えてきて、その後の補強作戦ががたてやすくなるからである。
Seldin, Peter. (1993). Successful Use of Teaching Portfolios. Bolton, MA: Anker.
頭うちの大学日本語教育↑
一時は日本語を受講する大学生の数がうなぎのぼりで、日本語教師は羽がはえたように就職が決まった黄金時代もあったが、今では学生数も5万人前後で頭打ちになってしまい、当分急激な成長は望めそうもない。最近では、修士号や博士号を持っていても、就職に苦労なさっておられる日本語教師予備軍の方がたくさんおられるようである。
一方、高校レベルでの日本語教育はまだしばらく伸びる形勢らしい。したがって、高校での日本語教師を養成する課程の教官の募集は、今後若干名ありそうであるが、そういう教師養成のポジションにつくには博士号ないしそれに準ずる学歴が要求される。なお、日本人といえども、しかるべきトレーニングを受ければ高校で教えることも可能だが、北米の高校教師の免許をとるにはかなりの年月を要するうえ、激務のわりにあまり社会的地位が高くなく、待遇もよくない仕事といわれていることは頭にいれておかれたい。
有資格者は売れる↑
1996年の某有名私立大学の講師募集には約30人が応募したが(これがその年に北米で講師レベルの日本語教師の仕事を探していた人の概数と見てよかろう)、そのうち大学での日本語教育経験がある人は15人前後だったとのこと。当然、採用はこういう経験者に集中することになる。一方、今でもLecturerレベルで日本語教師を採用する大学は15校よりは多いから、有資格者は粘っていれば7月ごろになって採用がまいこむ、なんてこともあるそうである(もっとも、そういう仕事は1年契約が多いが)。ただし、同じ年に某超有名私立大学には50名が応募し、その前の年の募集には80名が申し込んだそうである。既に他の大学で働いているLecturerの人達も、「あの大学が採ってくれるなら移りたい」と夢を託して応募したのであろうが、まあ凄い数ではあります。
日本語教師になるのに有利な専攻↑
昔は日本語の先生といえば日本文学を勉強した人と相場が決まっていたが、最近では、応用言語学、あるいは外国語教授法を専攻して日本語教師になる人も増えている。中にはTESLの修士号を持っている人もいる。しかし、これもlecturerレベルまでで、Assistant professor以上の職を探すとなると、今なお文学を専攻した人が一番有利で、それに次ぐのが言語学専攻である。最近の傾向として、「文化」を教えられる人が求められるようになってきているが、こうなると文化人類学や社会学、比較文化心理学などの専攻者にチャンス到来といえる。
一方、言語教授法や習得理論はいまだ、外国語学科の教授陣の間で広く市民権を認められるに至っていないようである。(霊長類の生態・生理の研究で飯を食っていけるようなポジションの数は日本全国で約100あるそうだが(立花隆『サル学の現在』)、これが日本語のsecond language acquisitionとなると、全米を探しても5つもない。)
日本語教授法を専攻なさった方なら状況は多少マシで、日本語教師養成課程のある大学に就職をねらうことができるが、これもポジションの数が限られているので、うまいタイミングで入り込まないと浪人の期間ができてしまいそうである。
外国語教授法に関連して、最近ではマルチメディア・ラボのディレクターとしてテクノロジーの素養のある人間が求められているから、日本語教育との組み合わせで売り込むという作戦も考えられる。メディア・ラボのディレクターという仕事は単にコンピューターやネットワークに詳しいだけでは不充分で、実地経験がものをいうから、大学院在学中に自校のラボの運営に携わる機会を持ち、できれば責任者から推薦状をもらっておくと有利であろう。日頃からこの職種に関する情報を集めたいなら、日本ではNet-lang、アメリカではLLTIというメールリストが好適である。
まれに、日本語プログラムの「世話焼き係」をする、coordinatorというポジションの募集がある。こういうところでは理論的に高度な研究を求めているわけではなく、プログラムを円滑に運営していけるだけの経験と技能が要求されているのであるから、自分の研究が教育実践上有効なものである、ということを最大限アピールしないといけない。難しい理屈は、こねればこねるほど損になる。それとともに、人の上、あるいは人と人の間に立ってやっていける「線の太さ」も要求されよう。
なお、言語学者が日本語教師として求められる理由の一つは、言語学科の大学院で日本語に関して修士論文や博士論文を書きたいという学生がいた場合、それを指導できる教官を大学として雇っておきたいためである(こういう需要は概して、大きい大学の方が多い)。日本語教師の養成コースがある大学なら、基礎的な日本語言語学入門のコースは必ず出さないといけないので、そこでも言語学者が必要とされる。他の学科の出身であっても、言語学の初級コースぐらいは教えられるだけの力のある方も少なくないと思うが、理論言語学の世界には時としてギルド意識が非常に強い人がいるので(そして「自分たちがやっている研究はsocial scienceではなくhard scienceだ」というのがお気に入りのセリフである)、言語学の学位を持っていない人間がlinguisticsと名のつくコースを教えると言い出すと、それだけで陰に陽にイジメに遭うこともあるそうである。
結論として、教授法や言語習得理論を専攻なさるおつもりなら、文学や文化のコースも教えられるような準備(例えば、関連するコースを聴講するとか)を学生時代に進めておかれた方が安全であろう。言語学科の出身でないならなおさらである。そういうコースのTAをやった等の実績があればいうことない。はじめからそういうgeneralistしての訓練を受けたいと思っているなら、Asian Studiesなどの学科だと関連科目がワンセット揃っている上、TAのチャンスも優先的に回してくれるので便利である。一方、「研究の本筋と全く違うことには時間が割けない」とおっしゃるのなら、日本語上級クラスの学生を対象に文学作品の文体への感受性の発達に関して実験をするとか、社会言語学的な観点から文化適応を論ずるとか、とにかく頭を使って一石二鳥を達成する作戦を練らないといけない。こういう準備は卒業間近になって慌てても間にあわないから、早い時期からの入念な計画が不可欠である。また、言語習得理論が専門の方は、教授法の専門家としても売り込めるような口上を考えておかれるのが、マーケットを広げるという意味で得策であろう。
日本語専攻課程の構想↑
筆者が1992年の春にある大学に招かれてjob interviewを受けた時のこと、「これから日本語専攻の学士号課程を始める計画だが、どんなプログラムを作りたいと思うか。」と聞かれて返答に窮してしまった。それまで筆者は語学教授法 については訓練と経験を積んできたが、日本語専攻課程を始めるにあたって必要な他の科目(例えば、日本語言語学入門、日本文化論、日本文学概論など)については、全く考えたことがなかったのである。案の定、その大学には後で断わられてしまった。読者がassistant professor以上の待遇の日本語教師の仕事を探す場合、何らかの形で日本語の専攻または副専攻課程に関わる可能性は大いにある。「日本語さえ教えられれば満足。」と自分では思っていても、周囲がそれを許してくれない場合も多い。(大学経営の観点からいうと、初級の語学科目は専攻科目と対になって始めて意味がある。語学だけを教えている教師は「半人前」と思われやすい。文学専攻の人が語学教師の仕事を得やすいのは、こういう背景があるからでもある)。
そういう時にあわてないで済むように、自分ならどんな専攻科目を出してみたいか、日頃から考えておくとよかろう。語学の授業に加えて余分な仕事が増えると考えると気が重いが、逆に語学トレーニング以外で自分が興味を持っていることをやってメシの種になると考えれば興味も湧こう。こんな時、文学や歴史専攻の方なら自分の修士論文や博士論文にまつわる話をするだけでも一学期ぐらいは時間がつぶせそうだが、他の専攻ではこの手が利かない。そこで、特に文学専攻以外の人、特に応用言語学や言語教育学専攻者が出せそうな日本語、あるいはアジア研究の専攻科目のアイデアをざっと思いつくままにならべてみると、
- Teaching English in Japan
(といって、求職方法やマーケット状況の解説と語学教授法の手ほどきをする。JET Progrmなどで1〜2年日本で英語を教える学生が増えているから、そういう学生にも、最低限の習得・教授論の手ほどきはあった方がいい。)
- Psychological analyses of Japanese and Western cultures
(というタイトルで、日米比較文化諸研究のサワリを話すだけでも10週間ぐらいは保つであろう。)
- Backgrounds of Asian languages and societies
(これは、特にアジア研究学科に就職なさった社会言語学専攻の方にお勧めである。現在の北京語がどういう経緯で生まれたか、中国の漢字簡略化運動の背景は何か、東南アジアでの広東語と北京語の相対的なステータスはどうなっているか、シンガポールで見知らぬ人にあったら、まず何語で話しかけるべきか、など言語の社会的背景を知ることは場合によっては言語技能そのものの習得と同等以上に重要である。こういう入門コースがあったら、筆者も受講したいぐらいである。)
学科の雰囲気によっては、文学専攻でなくても文学絡みのコースを出さざるをえない場合もある。そういう場合、自分の強味を生かした味つけを考えてみられるとよかろう。たとえば、
- Cross-cultural encounters in Japanese novels
(といって、森鴎外や遠藤周作の小説をネタに、文化心理学や社会言語学で味つけした漫談をやるわけである。)
- Cross-cultural encounters in movies
(Black Rain, Gun-Ho, Half Moon Street, Mr. Baseball, Rising Sun など、日本人が登場する欧米映画や欧米人が登場する日本映画をネタに、日米双方がお互いにどういうステレオタイプを持っているかを論ずる。)
変な「日本」が登場するハリウッド映画
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/tg/listmania/list-browse/-/3BRWHGPC07QHE/qid=1141552721/sr=5-2/ref=sr_5_10_2/249-1610683-5013954
日本(人)が登場する外国映画
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/tg/listmania/list-browse/-/3SUEQVUA0FZRN/ref=lm_ol_1/249-1610683-5013954
映画−西洋人が撮った日本
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/tg/listmania/list-browse/-/29K10G7K8K78I/ref=lm_ol_1/249-1610683-5013954
- Inter-cultural adaptations in movies
(「Shall we ダンス?」、「七人の侍」 など、日米翻案映画を比較する。)
- Sociolinguistics and pragmatics of Japanese literature
(考えてみると、小説や映画というのは社会言語学の素材の宝庫ともいえる。プロなら、その分析はお手のものであろう。)
- Learning Japanese business customs through novels/movies/comics
(といって、英訳された企業小説や映画、マンガの解説をやればよい。特に、会社勤めの経験のある方にお勧め。当今日本に興味をもつ学生の大半はビジネス/経済を指向しているから、日本文学のコースと称してビジネス慣習などを解説すれば、人気番組となろう。日本でどんな経済/ビジネス小説が出ているかざっと知りたければ、
佐高信『経済小説の読み方』(現代教養文庫)が便利である。
英訳されたものとしては、
Arai Shinya "Shoshaman: A Tale of Corporate Japan", University of California Press, 千栄子マルハーン訳(安土敏『企業家サラリーマン』(講談社文庫))
"Made in Japan and Other Japanese Business Novels", M.E. Sharpe, 玉枝プリンドル訳(堺屋太一、清水一行などの短編集)
Ikko Shimizu "Dark Side of Japanese Business", Colby Bookstore, 玉枝プリンドル訳
因みにColby College, East Asian Studies Programの玉枝プリンドル教授は、日本のビジネス小説を素材に博士論文を書いた文学研究者の草分け的存在である。なお、University of California Pressからは、
"Japan Inc." (石ノ森正太郎の『マンガ日本経済入門』の抄訳)
も出ている。
"Bringing Home the Sushi: Japanese Business Comics" (Mangajin)
は、『課長・島耕作』ほか数編の企業マンガの抄訳集である。)
- Japanese movies through multi-media
(デジタル素材を使うと、一本の映画を色々な角度から切ってこれまで容易にできなかった分析が可能になる。使いやすいauthoring toolがあるなら、学生に自分でリンクをつけさせる作業をterm projectとしてもよかろう。「DVDを用いた、市川昆監督『細雪』における色彩描写の分析」なんて立派な研究が仕上がるかもしれない。)
- Reading Japanese novels through hypertext
また、専攻科目を出すにあたっては、大学の特性を考慮することも時に必要である。たとえば、大学全体が何でもコンピューター化をめざしているなら、
- An introduction to Japanese language processing
と銘うって、日本語ワープロ、日本語電子メール、オンライン辞書、日本語データベースなどの紹介をすることも可能であろう。
同様にして、ビジネス指向の高い大学ならそれに応じた科目を出すように依頼されることも考えられる。
応用文学?↑
世に「応用言語学」や「応用物理学」という学問があるのなら、「応用文学」というのも成立するのではないか、とロシア文学の専門家相手に議論をふっかけたことがある。素人の戯言と吹き出しもせず、真面目に相手をして下さったのをいいことに滔々と自説をまくしたてたのは今となっては汗顔のいたりであるが。何故そんな突飛な質問を発したかというと、筆者も語学教師の端くれとして大学教育における外国文学コースの意義について、堂々巡りの素人考えを重ねていたところであったからである。(筆者がここで言っているのは、文学専門家養成のための文学コースのことではなく、いわゆる一般教養の文学のことである。大部分の大学の外国語専攻課程では、文学のコースをいくつかとらなければ卒業できない、たとえ将来文学者になるつもりはなくても。)
卒業証書さえもらえれば、何も学ばなくてもいいという輩は論外として、大学で外国語を学ぶ学生の大半はそのことばの実用的な効用に期待しているのであって、川端や三島を読みたいから日本語を勉強するという学生は今どき天然記念物的存在であろう。とすれば「ビジネス日本語」や「日本事情」のような一品料理を揃えたくなるのが昨今の趨勢であるが、一方、文学作品が人間の生き方についての深い省察を含んでいるのなら、文学を深く読み込むことによってその国民の発想法や世界観、コミュニケーションのスタイルを学び、ビジネスや政治交渉の場に役立てることだってできるはずではないか、というのが筆者の素人考えであった。そんなねらいを正面に据えたコースを設け、それを「応用文学」と称しても、差し支えないように思える。それに、世俗のことに超然としてみえる文学研究者が、こういう質問にどう答えるか、些か低次元の好奇心も手伝った。
ともあれ、「トルストイやドストエフスキーを研究することによって、ロシアの政局の動向を分析し、エリツィン政権の命運を占う手掛かりがつかめるか。」という質問にたいして、件のロシア文学専門家は、自信をもって「イエス」と答えた。「我々は文学を教える時、通常そういう視点を明言はしないが、そういった考察は含意されている。」というのが彼女の答えであった。たしかに「トルストイ『戦争と平和』に学ぶ対露ビジネス交渉の奥儀」なんて、いかにも雑誌『プレジデント』あたりの特集になりそうなタイトルである。とにかく、純粋文学の研究者が、政治や経済の分野の専門家はその専門分野に関連して自分たち文学者の学識から学ぶべきことがある、と言い切る自信に筆者は素直に感動したのであった。(できれば、卒業後ビジネスやジャーナリズムの世界に入っていった学生たちが、在学中に学んだ外国文学コースの意義をどう評価しているか、彼等の声もきいてみたい。)
日本文学の専門家に同じ質問をする機会にはいまだ恵まれないが、果たしてどのような答えが返ってくるであろうかーー川端康成を熟読することで、政界再編成についての見通しが得られるであろうか。あるいは、「愚問の極み」と冷笑をかうのみに終わるであろうか。
CIAあるいはKGBやモサドが対仏諜報専門家を養成する際にル=モンドとともにスタンダールやユーゴーを研究させる、というのはスパイ映画の道具立てとしても何となく尤もらしいけれど、米国務省の日本専門家の養成コースの必読書リストに田山花袋の『布団』が入っている、というのはありそうにない話に思える。『NOと言える日本』の英訳は米国の政治家に広く読まれたが、それはこの書物が衆議院議員石原慎太郎の書いた政治評論だからであって、作家石原の『化石の森』は政治家やビジネスマンのさしたる注意を引かない。
芸術至上主義という立場の存在を筆者は否定しないのであるが、それならそれで、その立場にもとづいて、外国語文学を学ぶことがその後の学生の人生にとっていかなる意義を持つのかについて、平易明晰なことばで学生に説明する努力を教育者は不断に続けるべきではないであろうか。そのコースが選択の余地のない必修科目であればなおさらである。たまたま文学を槍玉にあげたが、実はこのことはあらゆる教育の分野にわたっていえる。そのような努力は必ずしも全ての教育機関で充分になされてはいないように思える。
こんな座談会企画はどうだ?↑
対中国ビジネスの大物と古典中国文学研究の碩学と近現代中国史学の泰斗の鼎談って、盛り上がらないかな?どこかの総合雑誌でやってほしい。
研究費は少ない↑
たとえば心理学科に新しい教授が雇われた場合、まともな大学なら就任のpackageの一部として自分のLabを整えるための費用(start-up fund)を何千ドルか出してもらえることはほとんど常識になっている。理工系は言わずもがなである。卒業したてのassistant professorはまだ外部からのgrant moneyも持っていないから大学がこういう援助をするのが当然といえよう。ところが、語学教師にそういうstart-up fundを出す大学というのはほとんど聞いたことがない。辛うじてコンピューターとワープロのソフトウエアぐらいは買ってもらえるかもしれないが、それ以外の実験機器なんて夢のような話である。したがって表向き同じassistant professorの職階で雇われたとしても、所属学科によって出発点から研究環境にかなりの差がつくことを頭に入れておくべきだ。
業績を残す↑
北米の大学というところは、とにかく論文を出さないと肩身が狭い。Tenure reviewの中で一番大きい比重を占めるのはほとんどの場合refereed journal に載せた論文の数である。Tenureの審査は通常就職後6年目に行なわれるから、5年目の終わりの時点でどのぐらい成果があがっているかで勝負がほぼ決まってしまう(その時点で既に出版されたか、あるいは掲載が決定している論文の数が問題になる。)二級レベルの research universityでもその間に最低5本、一級の大学ならさらに多くの論文掲載が要求されるようである。
文学や理論言語学の論文産出のペースについては筆者は専門外でまったくわからないのであるが、自分でデータを集めなければいけない心理言語学のような研究分野の場合、それまで全く業績のなかった人が就職してから実験や調査を始めて5年目の終わりまでに5本というのは、決して楽なペースではない。「1年に1本なら軽い」と思われるかもしれないが、実際には新しい研究プロジェクトをはじめるにあたっては文献レビューをやったり予備実験・調査をやったりして手ごたえをみてから本格的にデータを集めるのが本道だから、それだけでかれこれ1年ぐらいかかったりしてしまう。そして苦労してデータを集めて分析してみても、思ったような結果が得られなければそのデータは当面使えないということだって起こりうる。
そういう難関をのりこえて研究報告がまとまったら、まず学会で発表したり草稿を研究仲間に送ってコメントを求め、手をいれるのが常道である。そうやって充分に練った上で論文を雑誌に送っても、一発で掲載決定というのはむしろ例外で、大抵はreviewerの要求にしたがって書き直し、再度reviewを受けた上でようやく掲載が決まるという方が多い。この雑誌とのやりとりのプロセスに1年かかっても、決して長すぎるとはいえない。さらに、あれこれ注文をつけられたあげく、書き直したものがrejectされてしまったら、また別の雑誌に投稿して一からはじめないといけない。結局、5年目の終わりに確実に雑誌掲載のめどをつけるためには、4年目のはじめごろにはデータが手元にないと安心できない。
ところがこの最初の3年というのは新任の外国語教師にとっては授業の準備やカリキュラム開発に多大の時間をとられる時期と重なっているから、本当ならとても研究に本腰を入れている余裕はないのである。特に最初の1年は、誰にきいても教えるだけで手いっぱいである。余程気前のいい大学でない限り赴任1年目の外国語教師にまとまった研究資金を支給してくれるところはないから、その1年間は軍資金なしで戦わなければならないという点も不利である。ある程度研究のことを考えられるようになるのは2年目からとすると、結局残り時間は実質2年余ということになる。
さらに外国語教師の多くは、平素自分が語学の授業で教えている内容の延長がそのまま専門分野の論文になるわけではないから、経済学や言語学の教師と同じ基準でくらべられると明らかに不利である。それに初級の外国語科目の場合教科書がかわると全面的に授業の準備をやりなおさねばならず、手を抜かずに真剣に教えている教師ほど苦労する。ところが、たとえば初級の数学を教えている先生ならそこまでの苦労はない。どこの大学で教えても、線形代数は線形代数である。しかし残念ながら、そういう点を考慮して外国語教師にハンディをくれる大学というのは聞いたことがない。(逆に、「そうやってあからさまに違う基準でtenure reviewをやってしまうと大学の教官の中にfirst-class citizensとsecond-class citizensを産み出すことになる」というのが反対側の論拠の一つである。)
こういう数々の悪条件を克服して外国語教師が「5年で5本、あるいはそれ以上」という難関をクリアするためには、色々知恵を使わないといけない。まず、博士論文や修士論文からできるだけ多く雑誌論文を出すことを考えるべきである。特に卒業後1年目は、まず学位論文を何らかの形で発表することを再優先するべきだ。 学生時代に書いたterm paperで気にいったものがあれば、そういうリソースを有効利用することも考えるとよい。大学院生の間に教授の研究の手伝いをするかわりsecond authorとして名前を入れてもらって、論文の「数」を稼いでおく人も多い。(もちろんsecond authorどまりではfirst authorあるいはsingle authorとして出した論文ほどに高く評価はしてもらえないが、それでも好印象を与えることはできる。)要は、大学院生の間に業績の「貯金」をしておく必要があるということである。
なお、学術雑誌に論文を発表する際は、著者が所属している機関の名前を付記するのが慣例だ。もし既に就職が決まっているなら、所属機関名としてその就職先の大学や研究所の名をあげた方が有利である。「我が校に来る前の業績」よりは「我が校に来てからの業績」の方がtenure reviewなどの時に高く評価されるからである。(いつデータを集めたり分析をしたりしたか、はほとんど問題にされない。とにかく、「〜大学の教官として論文を発表した」ということが大事なのである。)同様の理由で、転職が決まった時もできる限り「次の職場」を所属機関として掲げた方が得だ。
次に、純粋に理論指向の研究だけでなく、平素の教育実践の中から出てきたアイデアやノウハウ、レビューなどを論文の形にして発表することも考えるべきだろう。テクノロジー(教育工学)絡みなら新しいコースウエアの開発などを載せてくれる雑誌は結構ある。(例えば、CALICO Journal、IALL Journalなど。)いわゆるオンライン雑誌もWeb上にたくさんできていて、その多くはテクノロジー絡みである。Professional organizationの機関誌の中には投稿論文が少なくて毎回ページを埋めるのに苦労している雑誌もあるようである(いくらなんでもその雑誌の名前をここに書くわけにはいかないが、メールをいただければお教えします)。こういうところにおもしろい論文を送ってあげれば、文字通りの共存共栄ができるわけである。
テクノロジー絡みでない、純然たる日本語教育の教材論や教室活動のテクニックとなると載せてくれる雑誌の数は少なくなるが(このあたりがESLにくらべて不利なところーーTESOL Journal には毎号ちゃんとそういう投稿欄があります)、それでも全くないわけではない。例えばATJ Journal、New Zealand Journal of East Asian Studiesの両誌は過去に、Elenor Jorden教授著の日本語教科書"Japanese: The Spoken Language"の長文の論評を掲載したことがある。
さて、こういう教授法がらみの論文を雑誌に掲載したとして、tenure review committeeがそれを「まとも」なacademic contributionとして認めてくれるだろうか。これは採用の段階できちんとnegotiateしておいて、できれば書面にしてもらうべきだろう。確認を怠っては怪我のもとである。
ともかく、自分が教えるコースで使う副教材として素晴しい教材を開発しても、research universityの場合それだけでは大学レベルではさしてポジティブな評価の対象にならないことは確かである。たとえ学内のみならず、外部でも広く使われるようなソフトウエアを開発したとしても、やはりそれだけでは業績とみなされるかどうか心もとない。ところが、その開発結果の大要をrefereeつきの雑誌に論文として発表すれば、業績とみなすという大学は少なくない。これはもう、雑誌という「紙」に対する一種のフェティシズムとすら思える。
ともあれ筆者は現在、日本語教育・習得研究者の成果発表の場として有望な定期刊行物のリストを作成中である。ご参考になれば幸いである。
教授技法の論文↑
かくいう筆者もここ数年というもの教授技法に関するアイデアやノウハウを論文の形にする術を探っているのであるが、実際にやってみた印象として、教授法に関する論文というのはまず評価が難しい。理論指向の論文なら、過去の研究に照らして仮説が妥当か(検証する価値があるか)、研究デザインや統計処理はしっかりしているか、論述に飛躍がないか、などについては専門家の間ではある程度意見の一致をみる。テクノロジー関係の論文も、教育上のニーズ、技術的な新奇性などは見る人が見れば客観的な判定が可能なようである。ところが教授法のアイデア紹介となると、送り先の雑誌によって天地ほど違うレビューが帰ってくることがあり、こうなるとpeer review systemがまともに機能しないのではないか、という気持ちになってしまう。何も客観的な審査規準がないとなると、「うまく書けているか」だけで掲載が決まってしまうことになりかねない。
そうなると「客観性」をつけるために効果検証の実験研究などをしたくなるが、こういう教授法上の細かいアイデアの効果を一々実験にかけて数量化するというのが教育的にみてさして生産的なことであるとは、正直なところ筆者は思わないのである。それに、そういう論文というのは、えてしてオモシロクない。あるアイデアの効果のほどは学習環境によって左右されるものだから、現場に身をおいている教師が最適と信じる方法を採用し、結果に責任を持てばいいのである。そんな些末な「実証」にエネルギーと誌面を使うより、意思決定のヒントになりそうなアイデアを一つでも多く紹介してくれた方が教師の立場としてはありがたい。もちろん、ある教授法体系の効果をめぐって長年にわたり論争が続いているというのなら話は別で、厳密な効果測定研究をしてみるねうちもあろう。
ひょっとしたら、教授技法に関する論文の審査は、学術論文のそれではなく特許申請に範をとるべきであるかもしれない。それとともに、教授法上の業績発表の場を確保するのが重要課題である。最近ではModern Language JournalやForeign Language Annalsも妙に理論指向でdata-basedの研究しか載せず、Studies in Second Language Acquisitionの二番煎じになってしまった感がある。真に外国語教師の側にたったprofessional journalが待望される。(些か話が細かくなりすぎたかもしれない。実はこの節は、大学院生の方よりも、既にそれなりの地位を築いておられ、学会の動向に影響力を持っておられる先生方に読んでいただきたくて書いたのでした。)
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