北米留学上級技術マニュアル - 外国暮らし考
目次
- 生活の知恵
- 日本の情報に疎くなる
- 日本人らしくなくなる
- 「国外の眼」を知る
- 日本からの返事は期待するな
- カルチャーショック
- 自分がガイジンになるということ
- 中国人の前で漢字を書く時、照れる
外国に暮らすと、日本にいた時には思いもかけなかったことに頭を痛めたりもする。高尚な文明論は専門家に任せるとして、とりあえず形而下的なことを中心にいくつかご紹介しよう。
生活の知恵↑
サインは日本文字か、アルファベットか?↑
日本人海外旅行客がトラベラーズチェックにcounter-signatureをする際に、アルファベットより日本文字を使った方が防犯上安全なのは容易にご理解いただけると思う。漢字圏外出身の外国人にとって漢字やかな文字を真似て書くのは非常に難しく、したがってたとえトラベラーズチェックを盗まれたとしても不正に使われる危険を少なくすることができるからである。クレジットカードも然り。
しかし海外に長期滞在する者にとっては、このやり方は不便である。たとえば地元の銀行発行のpersonal checkのサインを日本文字表記にしたとすると、小切手を切る度にそれと同じサインの入った身分証明書(例えば運転免許証)の提示を求められる。ということは、現地で運転免許証を作る時も日本文字でサインをしておかねばならない。これは土地柄によっては窓口でのトラブルのもとになりそうである。
結局筆者は安易に妥協してしまってアルファベットでサインしているが、今にして思えば日本にいる間に野球選手や歌手のようにかっこいい(=誰も読めない)花押風サインを作ってそのサインで統一すればよかったと思う。これなら、どこへ行っても「これが私のサインです」と押し通せるし(読めないのは相手が悪いのだ!)、凝ったサインは漢字と同程度以上にまねするのが難しく、防犯対策にもなる。(ただし、クレジットカードの裏面のサイン欄は縦幅が狭いので、その範囲に収まるようなデザインにしておく必要がある。カードへの署名は細身の油性ペンが一番。これなら少しぐらいはみ出してもプラスチック上にしっかり署名を残せる。)
留学を目指す人は一日も早く一生使えるサインをデザインして、大学への問い合わせの手紙なども全て同じサインで統一すると便利でしょう。サインを作ってくれるプロもいるそうである。
「姓+名」か、「名+姓」か?↑
(執筆準備中)
名前の表記はヘボン式か、訓令式か?↑
五十音表に整然と表わされる日本語の音声体系をローマ・アルファベットをつかって組織的に表記するためには、訓令式("Yosinori")ローマ字表記法の方がヘボン式("Yoshinori")よりも適していることはもちろんである。しかし訓令式で"Yosinori"と書いて英語国民に見せれば、まず間違いなく「ヨスィノリ」と読まれてしまう。そう書いておいて英語国民に「ヨシノリ」と読め、という方が無理な注文である。すなわち、この訓令式氏名表記とヘボン式氏名表記の選択問題は結局、耳障りな発音で呼ばれることに耐えられるかどうかに帰着する。筆者は原音に近い発音で読んでもらいたいので、ヘボン式で"Yoshinori"と名前を表記することにしている。(無論、厳密にいえば英語の[no]と日本語の「の」もおなじ音ではない。しかし、ほぼ同じであると認識できる程度には似た音である。)
海外に住んでいなければ外国人が自分の名前をどう発音しておろうと知ったことではないので、訓令式で押し通すことも可能だったであろう。いや、実は例え海外に住んでいても「所詮外人には正しい日本語の発音はできない。」と割り切ってしまえばそれで済むようなものだが、そこにもう一人別の日本人がいると、ことが一段と複雑になる。その日本人と現地人が、それぞれ著しく違う発音であなたの名前を呼ぶとすると、当然両者の間で意思の疎通が阻害される。お互い、相手が誰のことを指していっているのかわからず戸惑うかもしれない。かといって、日本人が他の日本人を呼ぶ時にわざわざ現地人風の訛った(?)発音をするのもヘンである。結局、何らかの方法で発音をある程度一致させる手だてを講じないことには、たいへん面倒なことになりかねないのである。
もし子供に将来英語圏でこういう気づかいをさせたくなければ、「し」・「ち」・「じ」などの音の入った名前をつけないようにすればいいわけである。とはいえ、それで英語圏での問題は軽減されるが、中国語式やドイツ語式、フランス語式、スペイン語式のローマ字表記ではそれぞれまた違う問題が生じる。丸い地球上の地形を平面の地図に描けば面積・方位・距離のどれかが必ず歪むのと同じで、これには完璧な解決策というものはない。筆者は渡米前の段階で、「英語圏以外の外国で長期にわたって生活することは生涯ないだろう」と判断したのでヘボン式ローマ字を使うことにしたが、これが語学万能で世界各地を移り住むような人ならさらに苦労が増えることだろう。
さらに表記だけにとどまらず、日本語にある特定の音そのものが存在しない言語もある。例えばハワイ語には[s]の音がない。そこで昔のハワイ人たちは、外来語の[s]音を全て[k]と発音していたそうである。これでは、「佐々木」を「カカキ」と読まれてしまう!(ちょうど、英語の"Smith"が日本では"Sumisu"(「スミス」)になるようなものである。)
そこまで考えた上、長女に「まな」という名前をつけられたのが大阪外国語大学の奥西峻介先生である。[m]、[n]、[a]の音は世界中どの言語にも必ずあるので、将来愛娘に何国人の恋人ができても必ず"Mana!"と正しく呼んでもらえる。しかも「マナ」はポリネシア語で「太陽の贈り物」を意味する素晴しい名前。さらに次女には「かな」という名前をつけて「真名(=漢字)と仮名」というしゃれにもなっている…。(学者さんというのは、こうやって蘊蓄を傾けながら「遊ぶ」ものなのであろうか?)
余談ながら、筆者は日本語を学ぶ外国人にも同様の助言をすることにしている。例えば中国人の張さんが来月日本へ行くとしよう。少しでも原音に近い発音で呼んでほしければ名前をカタカナで「ジャン」と書くか、「張(ジャン)」と注記しておきなさい、逆に漢字の「張」だけでおしとおすなら「チョー」さんと呼ばれる覚悟をしておきなさい、と。そう言うと、「それじゃあ、漢字を使います。」という人が中国人には結構多い。中国人同士ですら方言によって同じ漢字を違った風に読むので、そんなことには慣れっこなのだそうである。納得。(筆者が頑張って相手の名前を中国語風に読もうと努力していると、「日本語風に読んでください。」とあっさり言われてクサったこともあった。)こういう「音」への思い入れでは、概して中国人は韓国人や日本人よりずっと淡泊だと感じるのであるが、これは筆者の偏見だろうか。
日本の情報に疎くなる↑
元号がわからなくなる↑
外国の大学にいると元号を使う機会がまずないので、たまに元号表記で履歴書を書く必要があったりするととっさに数字が出てこなくて弱る。そういえばインターネット上では日本語サイトもふくめ圧倒的に西暦表記が多い。読売・朝日・毎日・産経・日経の五大紙トップページのうち西暦と元号を併記しているのは産経のみで、あとの四紙は全て西暦一本である。
週刊誌的情報に弱くなる↑
政治経済スポーツなどの情報は各種新聞社のホームページやテレビ局のニュースクリップなどから収集できるので、外国に住んでいてもかなりの情報が集まる。それにくらべると、芸能などのいわゆる週刊誌ネタ情報はルートが乏しい。2ちゃんねるなどの掲示板や個人サイトはウラが取れているのかどうか怪しい情報も多い。おのずと、日本に帰ったらまっさきに空港の売店で週刊誌を買い求め、電車の中で読みふけることになってしまいがちである。
流行語がわからなくなる↑
日本のバラエティー番組が海外で流れることはまれなので、流行語の類がまっさきにわからなくなる。筆者は在米中、日本から来たばかりの学生が使っている「ボディコン」ということばが全くわからなくてとまどったことがある。
流行歌と時代が対応できなくなる↑
「歌は世につれ世は歌につれ」ということばのとおり、流行歌の記憶はその時々の世情政情や気候天候とともに記憶に刻まれる。「時代を共有する」とはそういう体験を共有することでもあるのだろう。海外暮らしの間にはやったという流行歌やドラマや映画を後で知っても、その当時の諸々の連想まで後追いで回復することはもはや不可能である。その間が「失われた〜年」になることは覚悟しておいた方がいい。
日本人らしくなくなる↑
身のこなしが日本人らしくなくなる↑
お辞儀、エレベーターの前での場所の譲り方など、ついつい日本式の動きを忘れてしまう。帰国しても、年長者に対する場所の譲り方などは特に不自然になりがちである。
ある程度社会経験を積んだ人だと、アメリカについて早々の頃は、握手のかわりについお辞儀をしそうになるなど日本風の挙作が出てしまうものだが、それが擦り減ってアメリカ風に染まったころに日本に戻ってくると逆カルチャーショックを味わうことになるのである。
髭をのばしたくなる↑
最近は多少事情が変わってきているようだが、筆者が渡米したころの日本社会では口ヒゲやあごヒゲはまともな社会人(=会社員、一般公務員など)が生やすものではないという不文律があった。いきおい、海外に出ると「今伸ばさないと一生チャンスがない」という思いからせっせとヒゲを伸ばす男が続出することになる。北米に渡ると日本人の男は若くみられがちなので、それを補うためにヒゲを伸ばす人もいる。
ただし、シェービングの時間を節約するつもりでヒゲを伸ばそうとお考えなら考え直した方がいい。口ヒゲならまだしも、あごヒゲは食事中にソースやマヨネーズがくっついたりして後始末の方にかえって時間がとられることが多いからである。

カタギっぽくなくなる↑
日本の大学院を出てそのまま学者さんになられた方と留学経験者を比べると、どことなく前者の方が組織人として「カタギ」らしく感じる。逆に後者の中には物腰がどことなく崩れていて精一杯よくいえばリベラル、悪くいえばヤクザっぽい人がいるのである。
どこが違うのかと考えてみると、留学経験組は長年の慣習や伝統に対して「なんでそんな無駄なことをするのか?」などと思わなくてもよいことを思ってしまいそれがついつい表に出てしまうことが一因になっているような気がする。
社会人経験ということからいうと日本の大学院よりも外国の大学院に進んだ人の方が会社勤めや中高の教員経験のある人が多い。いわばドロップアウト組のなれの果てである。そういう人は物事に対してアウトサイダー的な態度を取るのが癖になっているのかもしれない。
(筆者を個人的に知っている人なら、ここで「それはお前のことだ」と突っ込みが入るところだろう。たしかに、まともな学者さんなら、こういうふざけたマニュアルを書いている暇があればせっせと研究に精を出すのが本道である。)
日本語がヘンになる↑
会話に横文字がまじるようになる↑
(準備中)
敬語が出てこなくなる↑
会社員時代に鍛えられて敬語には自信を持っている方でも、何年も日本を離れていると一瞬スムーズに敬語が出てこなくなっていてびっくりすることがある。海外の大学では日本人コミュニティーといっても日本の会社ほど複雑な序列や階層があるわけではないので、普段使っていない頭の「敬語回路」が錆び付いてしまうのではあるまいか。
齢相応のことば使いができなくなる↑
貴方が25歳で渡米して33歳で帰国するとしよう。日本にいれば「若者」後期から「おばさん/おじさん」前期への移行期である。会社や役所勤めならそろそろ役職がつく時期だし、結婚して子供ができればPTAのおつきあいなども出てくる。周囲が貴方に接する対応が変化するのにあわせて、貴方自身の言葉遣いも自ずと齢相応に変化してくるものである。
ところが海外で学生生活を送っている間はこういう環境の変化がほとんどないから、言葉遣いも日本を離れた時にくらべて老成するとは期待できない。かくして「(昔の)若者言葉の中年」が誕生するのである。
ことばに詰まるようになる↑
(準備中)
やたらに漢字を使いたくなる↑
外国暮らしをしていると日常生活であまり漢語を使わないのでつい忘れ勝ちになる。逆に、外国暮らしで日本語を忘れたと言われるのが嫌で、たまに日本語で挨拶状などを書く時は漢和辞典と首っ引きで無理矢理漢語を詰め込む人もいる。そういう場合、ついやり過ぎになり期せずして笑いのタネを提供してしまうこともあるようである。
「国外の眼」を知る↑
長年アメリカに住んでいると知らず知らずアメリカのジャーナリズムの論調に慣らされてしまう。(「日本の常識は世界の非常識」と言った評論家がいたが、「アメリカの常識は世界の非常識」という場合だってある。もちろん、これは日米両国だけに限らない。)しかし、世界中の新聞雑誌がすらすら読めるまで各国語を勉強するのはおおごとである。そこで、時には「アメリカ国外の眼」で世相を見たいと思った筆者が情報源として在米中愛読していた雑誌が
World Press Review
http://www.worldpress.org/
である。アメリカ以外の世界各国(カナダ・メキシコ・中南北米・ヨーロッパ・アジア・アフリカ・オセアニアを含む)の新聞や雑誌から主だった記事・論説を集めて英訳した月刊誌で、アメリカのマスコミが伝えるのとは違った観点を手早く知ることができる。特に戦争などでアメリカの世論が一色に塗りつぶされている時は、違う見方にも一応目を通しておいて悪くないと思う。(同誌の日本語版を出したら日本の「国際化」に大いに貢献すると思うのだが、採算があわないだろうか?)もっとも、月刊でしかも海外メディアの翻訳という雑誌の性格上、ニュースのフォローが遅くなるのはやむをえない。
World Press Reviewの掲載記事の中でも筆者がとりわけ気に入って必ず目を通していたのはメキシコの新聞の論調で、アメリカ政府のやることを絶対額面通りに受け取らずいつも穿ったコメントをしてくれているので非常に楽しめた。「ひょっとしたら、世界で一番反米的なのはメキシコの新聞ではないか?」と思わせるぐらいである。
最近では中国の新聞などの方がむしろ、アメリカのいいところはいいとして素直に紹介することがあるようである。しかし、その程度の「いいこと」はメキシコの知識人にとっては常識であり、そのさらにウラを書くのがメキシコ人ジャーナリストの仕事なのだろう。
日本からの返事は期待するな↑
まだまだ電子メールを使わない人も多い。そこでわざわざ海外から日本の知人に手紙を出したのに一向に返事をくれない、と気を悪くする人もいるが、慣れていない人にとっては、横文字で宛先を書いたり海外郵便の郵送料を調べて切手を貼ったりするのはすこぶる億劫なものである。あまり返事は期待しない方が、がっかりしないで済むだろう。逆にどうしても返事がほしいような用件の場合、返信用封筒に切手もはった上で相手に送るという方法もある(時と場合を間違えると嫌味にとられるが)。こういう時のために、日本の切手を持っていくと便利である。
カルチャーショック↑
文化の深層にふれるような カルチャーショックの解決にはカウンセリングの専門家に相談することが必要になる場合もあるが、もっと表層的なレベルで最初に感じるのが、「日本なら簡単にできることが外国ではできない。」という不便からくるフラストレーションである。些末なところでは、米国の銀行へ行って電気料金を自動引き落しにしたいと頼んだところ「できない」と言われただけで、「何と不便な国だ!」と頭にきてしまう。米国では銀行が州をまたいで営業活動を行なうことが制限されているため、州の外へ出ると自分の取引銀行のキャッシュカードを自由に使えないことがあるのも不便である。特に最初の半年ぐらいは、そういう不満のタネが次から次へと出てくると覚悟しておいた方がいい。しかし、慣れると段々不満を感じなくなってくるから不思議である。
反面、「日本ではできなかったことが外国にくるとできる」ということも色々あるのであるが、そういう点に気がつくのには時間がかかる。おのずと、当初は「できない」不満の方が先行することになる。
商売のアイデアが産まれる↑
しかし、ものは考えよう。特にビジネス専攻の方は、渡米後間もないフレッシュな時期に感じたそういう不満や発見を逐一書き留めておくと、そこから新しい事業のタネが見つかるかもしれない。将来ガイドブックを書こうと考えておられる方も、同様である。(何年かたってしまうと、そういう記憶というのは薄れてしまうものである。)ついでに、日本に戻った時に感じる逆カルチャーショックもこれまたアイデアの源と考えれば、苦労が文字どおりの資本になるだろう。
小説のネタができる↑
異文化経験が生きる分野は実業ばかりではない。何年か海外生活を続けていると、日本では絶対できないようなおもしろい(当人にとってはその時は辛いことが多いのだが)経験が重なってくる。「いつかは文壇デビューを」と密かに狙っておられる方は、こういう経験をしっかりメモしておこう。日本人の留学生生活(あるいは日本人が海外の大学の教官として過ごした経験)を描いた小説は筆者の知る限りまだ少ない上、そこには異文化/異言語間の摩擦や軋轢が集約した形であらわれているので、格好の小説の材料になること間違いない。留学中は忙しくて執筆に至らなくても、詳しいメモさえ残してあれば後で作品化することが可能である。
残念ながら筆者はその方面の才能がないのでこういう芸当はできなかったが、文才に自信のある読者は、ぜひ試してみられてはいかがであろうか。日英語チャンポンのバイリンガル小説にして読者が英会話の勉強もできるようにする、という攻め方もあろう。それで売れっ子作家になれれば儲けものだし、たとえプロの作家にならなくても、書きためた短編集をインターネット上で公開(小説版の「留学マニュアル」?)するのも優雅な趣味といえるかもしれない。留学先で嫌な経験をしても、「これでネタが一つ増えた」とプラス思考に切り替えれば乗り切れることだってあろう。
もちろん集めた材料を小説ではなくルポルタージュやエッセイとして料理することだってできる。和歌や俳句を嗜まれる方は、海外生活を詠みブログ歌集/句集として公開するなどいかがであろうか。このあたりはそれぞれ自分に適したジャンルをお選びになるとよろしいでしょう。伝統文学が海外に題材を求めるのも昨今のトレンドのようである。
研究の種になる↑
異文化間コミュニケーションやカウンセリングを専攻しておられる方にとっては、自分自身が受けたカルチャーショック体験が研究上のヒントになることもあろう。とりわけ、留学を終えた後で日本に帰って留学生相談業務につきたいと思っておられるなら、こういう実体験が貴重である。
自分がガイジンになるということ↑
「国民」「市民」ならぬ「住民」として住む↑
学生寮暮らしの間はあまり感じなかったが、アパートに住むようになるとゴミの回収など様々な点で地域自治体の公共サービスとじかに接する機会が多くなる。当然、「こうしてほしい」「ああしてほしい」という希望も出てくる。別に多額の予算が必要なことではなくても、交通標識を見やすい場所に移してほしいとか、ゴミ回収の時間を変えてほしいとか、治安が悪いので夜間の路上パトロールを強化してほしいとか、そこに住んでいる人間でないとなかなか気がつかない、細かいことが色々あるのである。
ところが、筆者が暮らした米国でも豪州でも(日本と同様)外国人に参政権を認めていないから、こういう意見を伝える場がない。「警察や清掃局に陳情にいけばいい」と言われるかもしれないが、やはり外国人住民の様々な希望を集約して市に伝えてくれる代表者が市議会のような場にいてくれたら助かる、と単純に感じたのである。市の側としても、定住外国人の考えを集約してつたえてもらった方が行政がやりやすいということもあろうかと思う。
とはいえ、市の行政といえども時と場合によっては国の安全保障や外交に関わる事項を扱うこともあるわけだから、そこに外国人の投票を反映させるわけにはいかないというのも一理あると思う。こちらとしても「せめて意見を伝える機会を設けてほしい」というのが願いで、市民権をもった人達と全く同じ権利を求めているわけではない。
そこで「定住外国人による代表選挙をおこない、選ばれた代表者は市議会にオブザーバーとして参加して発言することができる。ただし議決権はなく、機密事項の審議にあたっては退席する。」という案を考えたのであるが、問題外であろうか。保守派の方は「蟻の一穴からダムが崩れる」という観点からオブザーバー参加にも反対されるかもしれないし、逆の立場からは「議決権なし」では無意味だと批判されるかもしれないが…。実際問題として、定住外国人は(エスニックごとに、あるいは全くばらばらに)市内各所に離れて住んでいることも多いので、少数の代表者がその全体を見渡すことが難しいという場合もあろうかとは思う。
「ランボー II」を見た↑
学生寮で見た「ランボー II」は薄気味の悪い映画であった。例によってスタロ−ン扮する元特殊部隊兵のランボーが大暴れし、ベトナムに置き去りにされベトナム兵に虐待されていた米兵達を見事救出するという粗筋は御存知の方も多いと思う。
ここで、10名前後の米兵(白人兵と黒人兵)を救出するためにその何倍ものベトナム兵を殺したことにはとりあえず目をつむることにしよう。筆者が一番無気味に感じたのは、ベトナム兵の描き方である。作中あらわれる敵役のソビエト軍将校には「悪」という人格がしっかり描き込まれていたが(悪魔には天使と対等の人格がある!)、ベトナム兵にはそういう人格がそもそも付与されていない。作中のベトナム兵達はあたかも昆虫のように動き、昆虫のように(苦しむふうもなく)殺されていったのである。そういえば、サングラスをかけて登場したベトナム将校はまさにトンボのようにみえた。アメリカ人の眼にはアジア人がこのように映っているのかと、筆者は戦慄を覚えたのである。
そういえば、ちょうど同じころ中国から留学してきていたエリート学生はいたくこの映画が気に入ったらしく、ramboというハンドルネームを喜々として使っていた。ったく!!
中国人の前で漢字を書く時、照れる↑
新米Teaching assistantとしてはじめて日本語を教えた時のこと、筆者のクラスに香港出身でMBA専攻の大学院生が入ってきた。この学生が、書き取りのテストでしばしば日本ではもはや使われていない旧字体の字を書くのでそれを訂正せねばならなかったのであるが、中国人が書いた漢字を日本人がなおすのは何やら分家の分際で御本家様に説教しているようなもので、ひどく照れてしまった記憶がある。(向こうも内心では「漢字のことを日本人なんかに教えられてたまるか。」と思っているのだろう、などと考えないでもいいことを考えてしまうから余計に意識過剰になる。)自分が中国人に対してこんなにひどいinferiority complexを抱いているとは、この時まで気がつかなかった。これも異文化を通じた自己発見といえようか?
実際、中国人(本土、台湾、香港を含む)の知識人の書いた文字は、漢字はもちろんのことかな文字も概して形が整っていて、並みの日本人が書いた字よりよっぽど見栄えがする。もっとも、それで漢字学習を甘くみて後で痛い目をみる中国人日本語学習者がいることもたしかである。(筆者も最近ではあつかましくなって、あいてが何人だろうが平気で訂正してしまうようになった。これも日本語教師の修練の一つです。)
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