北米留学上級技術マニュアル - 過激なリベラル ACLU
目次
過激なリベラル American Civil Liberties Union↑
1988年のアメリカ大統領選挙は、序盤劣勢であったGeorge Bush副大統領(共和党)が民主党のMichael Dukakis候補に対して徹底した「リベラル攻撃」(いわば「アカ攻撃」)をかけ、相手のイメージをひきおとす作戦で逆転勝ちを収めた。このときにDukakis候補への攻撃材料の一つとして使われたのが、同候補がAmerican Civil Liberties Union (ACLU)という団体の熱心な会員(本人によれば、"a card-carrying member of the ACLU")だということであった。【UCLA (University of California, Los Angeles)と紛らわしいので間違えないように。】
急進リベラル派が極右団体を法廷支援↑
対立候補への攻撃材料に使われるぐらいだから、よほど極端なことを主張あるいは実行している団体なのかと思って調べてみたら、はじめ思っていたのとは違う意味で確かに極端である。もともと死刑の廃止や妊娠中絶の完全自由化・同性愛者の権利擁護・公立学校での国旗宣誓式廃絶などリベラルな主張をしている団体で、その立場は総じて、アメリカ人全体の平均値よりはかなり「左」寄りに位置するといえよう。その会員にはかなりの比率でユダヤ人が含まれている(Dukakis夫人もユダヤ人)。ところが、その団体がなんとネオ・ナチやKKKなどの極右人種差別団体を法廷で支援しているのである。
どういう経緯かというと、ネオ・ナチやKKKがアメリカ国内でデモ行進などの許可申請をしても、あれこれ理由をつけて却下されることが少なくない。ドイツと違ってアメリカには全体主義政党の活動そのものを十把ひとからげに禁止・制限する法令はないが、実際の制度の運用では何かにつけて不利な扱いを受けやすいのである。(そういう点では、極右団体への締め付けは左翼政党に対するよりもさらに厳しいとすらいえる。---ナチスを「右」ではなく社会主義左翼運動の分派あるいは亜流と位置づける人もいるのだが、そこまで話を広げると容易に収拾がつかなくなるので、ここではとりあえず通説にしたがい「極右」ということにしておく。なお本題とは関係ないことだが、ネオ・ナチとKKKが組織レベルで仲良し同士かというと、別段そうともいえない。)
「言論の自由」の完全実現をめざすACLUは、これを重大な憲法違反ととらえる。そこでネオ・ナチやKKKが訴訟費用の捻出に困っている時は、顧問弁護士を派遣したりしてデモ権擁護のために闘っているわけである。つまり、ユダヤ人会員の納めた会費の一部がネオ・ナチを法廷で支援するために使われ、黒人会員の納めた会費の一部がKKKの権利擁護のために支出されていることになる。ACLUが派遣したユダヤ人弁護士がネオ・ナチの弁護を担当し、黒人弁護士がKKKを代弁したこともある。(もちろん、ACLUがこれらの団体の主張に賛同しているわけではない。)
リベラルの大義↑
「いくら『言論の自由』が大事だといっても、何もネオ・ナチやKKKの支援をしなくても…。」と思うのが人情だろう。そもそも、ネオ・ナチ自体が『言論の自由』などという理念を認めていないのである。そういう団体が自分達のデモ権の確認を求める訴訟を起こしているのは、言論の自由を保証した自由主義社会の法制を利用する「戦術」に過ぎない。万一彼等が政権をとろうものなら、自分達に対する批判的言論を真っ先に力づくで封圧しようとするのは目に見えている。いくらネオ・ナチやKKKを訴訟で支援してやっても、それで相手が改心(?)して反対派の「言論の自由」を認めたり、人種融和的になったりする気遣いだけは絶対ない。現に、ACLU会員宅が人種差別主義者に放火されるという事件も南部で起きている。
しかし、ACLU支持者にいわせれば
「『言論の自由』とは自分が反対・嫌悪する意見の表明を例外なく認めることだ。(だれだって自分が賛同・支持する意見の表明を歓迎するのはあたりまえだから、そんな権利はあらためて言い立てるまでもない。)したがって、現社会体制の打倒・転覆を目指す党派にも自由な発言を許さなければ、その社会には真の言論の自由があるとは言えない。自由社会の理念を罵倒し人間の尊厳と言論の自由を蹂躪してきたヒトラー政権や毛沢東政権の支持者といえども、別扱いにはできない。もし『ネオ・ナチやKKKだけは例外』としてその発言を封じたら、いつの日にかその先例は自分たちに対する言論抑圧のために利用されるだろう。」と。
筆者なりにこの考え方を敷衍すれば、次のような事態になるのを防ぐためにはネオ・ナチにも言論の自由を認めなければならない、ということなのだろう。
「当局は最初にネオ・ナチの発言を禁じた。しかし、私は沈黙していた。私はネオ・ナチではなかったから。
彼等は次に国粋主義者の発言を禁じた。しかし、私は沈黙していた。私は国粋主義者ではなかったから。
彼等は次に保守主義者の発言を禁じた。しかし、私は沈黙していた。私は保守主義者ではなかったから。
彼等は次に共和党員の発言を禁じた。しかし、私は沈黙していた。私は共和党員ではなかったから。
ある日、彼等は私のもとにやって来た。その時、私は初めて彼等に抗議した。しかし、その時には、何もかもが遅かった。」
これはもちろん、マルチン・ニーメラー牧師の告白を要約したとされる次の一節のもじりである。
「ナチスは最初に共産主義者を攻撃した。しかし、私は沈黙していた。私は共産主義者ではなかったから。
彼等は次に社会主義者を攻撃した。しかし、私は沈黙していた。私は社会主義者ではなかったから。
彼等は次に労働組合を攻撃した。しかし、私は沈黙していた。私は組合員ではなかったから。
彼等は次にユダヤ人を攻撃した。しかし、私は沈黙していた。私はユダヤ人ではなかったから。
ある日、彼等は私のもとにやって来た。その時、私は初めて彼等に抗議した。しかし、その時には、何もかもが遅かった。」
この精神は、かつて筆者が夏休みに旅行中、SERVASを通じて申し込み宿泊させていただいた、シカゴ郊外の高級住宅街に豪邸を構えるユダヤ人医師ご夫妻(熱烈なACLU会員にして国際アムネスティ会員で民主党リベラル派支持者)から懇々と諭されたところである。(「お金持ちなら所得税を減税してくれる共和党を支持する方が得だろう」と思うのだが、そういう低次元のところで支持政党を決めないところがエラい!)
リベラルを貫くのは、しんどい↑
ごもっとも。まことに御立派な正論であります。立派過ぎて真似できないという人もいよう。「寛容は非寛容に対して寛容たりうるか/たるべきか?」は自由主義思想が抱える古典的ジレンマだが、この問いかけにたいしてACLUは明快・徹底的に「イエス」と答える。
世に「過激なリベラル」・「過激な中道」なるものがあるとすれば、それはまさにこういう人達のことだろう。両端で「ウヨク」や「サヨク」を張るのに比べて、その中間あたりでチマチマとどっちつかずのキレイゴトを言いながら「リベラル」を名乗るのは楽かと思っていたが、この話を聞くといかなる場合にも首尾一貫してリベラルの大義を貫き続けるのがいかにしんどいことかがよくわかる。
法律家個人のレベルならいざ知らず、こういう活動が市民運動として定着しているというのが凄い。これがいかに想像を絶する事態かを御理解いただくために、日本で次のようなことが起こりうるかどうか考えていただきたい。
「徴兵制・核武装・婦人参政権剥奪・社会主義政党の非合法化・神道の国教化・キリスト教の禁止などを唱えている極右団体が、独自に高校歴史教科書を編纂したとする。その内容たるや、『天孫降臨は史実』、『日韓併合は正しかった』、『満州事変勃発は中国の責任』等々、現代タブー破りのオンパレード。おまけに年代の記述は西暦でなく皇紀によっている。その内容が東アジアの近隣国政府や内外のマスコミから厳しい批判を受け、文部科学省は教科書検定において不合格処分を下した。この処分を不服として、著者達は日本国政府を相手に不合格処分の取り消しを求める訴訟を起こした。そして、この極右グループの訴訟活動を『教科書検定制度反対』の立場から家永三郎教授の支持グループが支援し、『右派的教科書で学ぶ自由』を擁護するために顧問弁護士の派遣を申し出た…。」
(蛇足ながら申し添えておくと、ACLU自身は教育が宗派的主張から中立であるべきだと主張している。アメリアの一部の郡の公立学校でキリスト教原理主義の教義に則った授業が行なわれているのを憲法違反ととらえ、郡の教育委員会に対する訴訟活動を通じてこれを排除しようと法廷闘争を続けている。)
誤解のないようつけくわえておくが、アメリカ人が全てACLUのように(良きにつけ悪しきにつけ)原理原則に忠実な言動をとるわけではなく、その時の情勢に応じてずいぶんとご都合主義的な日和見を重ねる政治家や言論人(や学者)も数多くいる。
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