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北米留学上級技術マニュアル - コワい話


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大量死の主原因

人類史上、一国の人口組成に大きな歪みをもたらすほどの大量死をしばしば招いた要因といえば、

  • 疫病
  • 自然災害とその結果としての飢饉

とともに、

  • 戦争

があげられる。中でも今世紀の両次の世界大戦とその前哨戦では銃前・銃後の別なく戦禍が及ぶことが多く、戦闘員・非戦闘員をあわせて数千万人の命が奪われた。

人為的大量死の歴代第一位は

 国家間の戦争以外の要因による人為的な大量死が人類史上最大の規模で起きたのは、20世紀中葉の中華人民共和国建国以降約50年間の、中国大陸とその周辺地域だろう。「大躍進」と称する無謀な産業政策の失敗によりいわば人為的にうみだされた飢餓(餓死者総数、一説に3000〜4500万人)・「文化大革命」という名の大量虐殺(死者総数、一説に2000万人)・「解放」以来チベット・東トルキスタン(新疆)等各地で延々と続く少数民族迫害(チベットでの死者総数、推定120万人)・収奪と宗教弾圧など、かつて中国共産党とその内外のシンパが「反動派による反共デマ宣伝」と一蹴した観測は全て、おおむね事実に即するものであったことが実証されている。かつて文革を支持しておきながら、1989年の天安門事件の報道に接してはじめて「人民に銃を向けるとは中国解放軍も堕落した。」と嘆いた脳天気な論者がいたが、あの何万倍規模の惨劇が文化大革命を通して中国全土でくりひろげられていたのである。


産經新聞1994年7月18日付

 【ワシントン17日=熊坂隆光】中国で毛沢東主席が実権を掌握していた一九五〇年から七六年の間に、急進、過激な経済政策の失敗により伝えられるよりはるかに多数の人民が死亡し、文化大革命の犠牲者などを合わせると死者数は八千万人にも及ぶことが明らかになった。十七日のワシントン・ポスト紙が報じたもので、毛主席にその責任があると論評している。

同紙は、この数字について中国や西側学者の研究と同紙独自の調査を総合した結果としており、具体例を挙げて数字の正確さに自信を示している。経済政策の失敗や文革の犠牲についてはこれまでも研究や報道があったが、大幅に塗り替えられることになる。

 同紙によると、死者の多くは「人災」と断定できる飢きんによる犠牲者。原因のほとんどは大躍進政策を強引に推し進め、西側に追い付こうと農業生産より工業生産を重視した毛主席の誤りとしている。プリンストン大現代中国研究センターの陳一諮氏によると安徽省の飢きん(五九−六一年)では、四千三百万人が死亡したという。

 中国社会科学院が八九年にまとめた五百八十一ページに及ぶ調査資料によると、この飢きんでわが子を殺して食べてしまった例や人肉が商品として取引された例などが記録されているという。このため中国政府自身がある程度実態を把握しつつあるのではないかとみられる。

 こうした数字が事実とすると、毛主席はスターリンなどを上回る史上まれにみる残酷な指導者ということになるが、同紙は、毛主席が依然として中国で尊敬され評価されていることに疑問を呈している。


 かつて中国政府は、「全国人民代表会議」なる実権のない飾り物の機関のメンバーに少数民族出身者から選んだ協力者を一定数割り当てているのを売り物にして、あたかも少数民族を優遇しているかのような宣伝をしていた。現に、それを真に受けて宣伝に協力した無邪気なジャーナリストや学者が日本にもいる。しかしその裏では、仮借のない民族文化破壊政策が進行していたというのが真相である。チベット自治区の実権を握る上級官吏のうち、地元出身のチベット人は半分以下であるという数字が現地の実態を如実に物語っている。ここでも、中国政府はしばしばチベット人を実権のない名誉職的地位にまつりあげてうわべは少数民族優遇のポーズをとりつつ、チベットの経済・軍事等の実権は中国人官僚を通じて掌握している。

 これらの事実から類推すれば、共和国成立(1949年)前後の「人民裁判」による処刑者の総数が数百万〜数千万人に達したという推定もあながち荒唐無稽とは思われない。むしろ、中国共産党支持の立場からこの推定をまたしてもやみくもに否定する論者の方が、実績に照らして信憑性が低いと判断せざるをえない。勿論、1975年4月以降のあのカンボジア大虐殺(死者総数、推定100万〜300万人)も、文化大革命と切り離しては論じられない。カンボジア大虐殺の死者のうちかなりの部分は無謀な経済政策に起因する餓死者であることが判明している。そういう観点からみると、カンボジア大虐殺はかつて親中派文化人が賛美してやまなかった中国「大躍進」の小型版であり、ポル=ポトこそは毛沢東の最も忠実な弟子であったということもできる。(ただし公正を期するために補足しておくと、ポル=ポトを支援したのはかつて文化大革命で「走資派」として弾圧されたケ小平その人であった。)

 19世紀中葉の太平天国の乱前後の清国でも、洪秀全ひきいる太平天国の恐怖政治下で一説に5000万人の死者が出たといわれる。



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