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北米留学上級技術マニュアル - アメリカの教育:強みと弱み


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北米大学は学歴身分社会

 北米の大学は、おそるべき身分社会である。「身分」といっても世襲制ではなく、一代限りの学歴によるものだ。どんなに優秀な人物でも、博士号を終えていないと昇進において圧倒的に不利な立場に立たされる。一流といわれる大学で博士号を持たない人間がassociate professor以上に昇進することは、今後はほとんど起こらないであろうと思われる。(連邦政府の閣僚を経験するとか、ノーベル賞でもとれば別だが。)修士号以下の学歴しか持たない者は、いかに力があっても下働き扱いされ大学の意思決定にも参加できないというのが、現実である。これは一つには博士号を持つ教官の比率が大学評価の基準に加えられているからだが、そのために妙な形式主義を生んでいることは否めない。

 少なくともこの点に関する限り、北米より日本の大学の制度の方が柔軟だと思う。学位の有無にこだわらず元外交官や元新聞記者、元スポーツ選手、現役人気落語家などの有識者が大学の教壇に立つことを可能にする日本式の融通性は、評価してよいだろう。折角そういう制度があるのだから、日本の政治家や財界人も引退後は教育界に転身して後進を育成したらよいと思うのだが。ご参考までに、オーストラリアのPaul Keating元首相の最終学歴は高卒だが、政界を引退後University of New South Walesの特別教授に就任して随時特別講演を行なっている。また、アメリカでも元国連大使のカーク・パトリックを教授に迎えた大学がある。(もっとも、その授業はヒドいものだったとSykesが"ProfScam"で糾弾している〜〜コトの真偽については責任を負えません。)

女優も学歴社会

 アメリカで人気男優になるには学歴はあまり関係ないが、女優は有名大学か一流の俳優養成所を出ていないと大成しにくいものらしい。大女優メリル・ストリープはYale University で演劇学の修士号を修めた。



フランス軍中尉の女
俳優等:メリル・ストリープ, ジェレミー・アイアンズ
20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン
発売日:2004-08-02
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ジョディ・フォースターも同じくYale University 出の才媛。フォースターは少女時代に"Taxi Driver"で名子役としてデビューしたが、その後も確実にヒットを重ねている。


タクシードライバー コレクターズ・エディション
俳優等:ロバート・デ・ニーロ, シビル・シェパード, ピーター・ボイル, ジョディ・フォスター, アルバート・ブルックス
ソニー・ピクチャーズエンタテインメント
発売日:2005-12-16
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かたや、ブルック・シールズも名門Princeton Universityの卒業生である。


青い珊瑚礁 コレクターズ・エディション
俳優等:ブルック・シールズ, クリストファー・アトキンズ, レオ・マッカーン, ウィリアム・ダニエルズ
ソニー・ピクチャーズエンタテインメント
発売日:2005-06-22
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 中には学歴に頼らずミス…コンテストに入賞したのを踏台に芸能界入りする例もあるが、そういう女優は「金髪のヤンキー美人」というステレオタイプ的な役柄を越える、俳優としてやりがいのある難しい役をなかなか回してもらえない。そこで頭打ちになってしまった好例がファラ ・フォーセットである。(とはいえ、ファラ ・フォーセットは南部屈指の名門テキサス大学の卒業生なのであるが。)


サンバーン
俳優等:ファラ・フォーセット, チャールズ・グローディン, アート・カーニー
ジェネオン エンタテインメント
発売日:2003-12-21
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 ミスコン出身女優にして珍しくその壁をのりこえたのが、『氷の微笑』("Basic Instinct")で冷たい美人(ice queen)を演じたシャロン・ストーン。もっともストーンは目立つほどの学歴こそないものの実はIQ150台の準天才級の頭脳の主だそうで、御本人もそのことを自慢のたねにしている。


氷の微笑
俳優等:マイケル・ダグラス, シャロン・ストーン
ジェネオン エンタテインメント
発売日:2004-11-25
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 ストーンが『氷の微笑』で一躍脚光を浴びた直後の次回作『硝子の塔』("Sliver")では一転して「可愛い美人」の役を選んだのも、ひょっとしたらイメージの固定化を避ける頭のいい作戦の一つであろうか。ここのところストーンに一時期ほどの輝きがないのが惜しまれる。


硝子の塔 日本未公開ノーカット版
俳優等:シャロン・ストーン, ウィリアム・ボールドウィン, トム・ベレンジャー, マーティン・ランドー
出版社/メーカー:DVD
パラマウント ホーム エンタテインメント ジャパン
発売日:2007-04-27
メディア:パラマウント ホーム エンタテインメント ジャパン
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(以上、『日豪プレス』1998年1月号より情報を得ました。)

博士号は開業免許

 北米は学位のインフレ状況である。毎年5万人前後も北米の大学から送り出される博士(その多くは20代後半から30代前半)が、みんなそれぞれの分野の権威・大御所だなんてことは期待できない。博士号は、いいところその分野での駆け出し研究者としての最低限の運転免許または開業資格だと思っておいた方がよかろう。理工系では博士号をとったあと、さらに名のある先生の下でpost-doctoral fellowとして数年の下働きを積んでからはじめてassistant professorとして就職するというのが常態化しつつある。こうなると、PhDは仮免なみである。日本の文学博士の権高さからは想像もできない。

酷評紹介

栗本慎一郎氏いわく

 まずは大学論でお馴染みの栗本慎一郎先生にご登場いただきましょう。

「…ひと通りのことを終われば必ず出す米国大学の学位があるということと、教授の研究力はまったくリンクしない…」

(栗本慎一郎「国際基督教大学」、『間違いだらけの大学選び・疾風編』所収、p. 153)。


間違いだらけの大学選び〈疾風編〉
作者:栗本 慎一郎
出版社/メーカー:単行本(ソフトカバー)
発売日:1994-01
メディア:朝日新聞
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間違いだらけの大学選び〈怒涛編〉
作者:栗本 慎一郎
出版社/メーカー:単行本(ソフトカバー)
発売日:1994-11
メディア:朝日新聞社
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 うぅむ。「言ってくれますねえ、栗本センセ!」っていう感じだが、言語学科や経済学科では、その「ひと通りのこと」を終わってきちんと概論を教えられるということも大事なのである、ととりあえず自己弁護しておこう。

鷲田小彌太氏いわく

 悪口を言われついでにもう一つ、キョーレツなのを紹介しておく。

「うそだと思うなら、外国のふつうの大学教師とつきあったらわかる。教授資格をもち、ドクターを保持している大部分の教師の知的レベルは、驚くほど低いのである。もちろん、書いたものを読んでも、内容で、うーんとうならされるようなものは、本当に少ない。」

(鷲田小彌太「日本の知的損失に果たす教授の役割」、川成洋『だから教授は辞められない』所収、p. 125)


だから教授は辞められない―大学教授解体新書
作者:川成 洋
出版社/メーカー:単行本(ソフトカバー)
発売日:1995-09
メディア:ジャパンタイムズ
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と書いてあるのを読むとこちらの方がうーんとうならされてしまうが、内容の真偽については敢えてコメントしないので、ご自分で確認なされたい。

将来日本の大学に就職なさりたい方には、次も「参考」になるかも?

「外国の大学の大学院を出ることを薦めたい。私は、この章で、日本の一流大学の大学受験に受かる「学力」をもってはいない人でも(こそ)、オーソドックスな方法で大学教員になれる方法はあるということを示したいのである。…アメリカの高校、大学と進み、一流校の大学院でなくても、ともかく大学院を修了さえしてきたら、日本では、大手を振って、研究養成機関を出た研究者の卵と認められるのである。これは、日本で、一流の大学院を出るのと比較して、相当に「やさしい」ことであるとみなしてよい。」
(鷲田小彌太『大学教授になる方法』p. 52〜53)



大学教授になる方法
作者:鷲田 小彌太
出版社/メーカー:文庫
PHP研究所
発売日:1995-03
メディア:PHP研究所
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ただし『大学教授になる方法』単行本版の初版は1991年なので、今でもこのとおりかどうかは識者に確認なさった方がよかろう。

佐藤優氏いわく

 学者の発言だけでは偏りが生じるとご心配の方のために、元外交官(法的には「起訴休職中」)のコメントを引用する。
「まず、語学力が貧弱なことが、中途半端な専門家の特徴である。ちなみに外国の大学で博士論文を書いているから、語学力があると考えるのは早計だ。下手くそな英語やロシア語で、わけがわからない草稿を書いても、きちんとカネを払えば、博士号が取得できる論文に仕上げてくれる業者が外国の大学や研究所周辺にはいくらでもいるからだ。」
(佐藤優「インテリジェンス交渉術(14)―総理の女性スキャンダル―」『文藝春秋』2008年9月号350ページ)

そんな業者があるとは知らなかった録主も目から鱗。

Sykes氏いわく

 日本人が書いた北米大学批判ばかりではものたりない、というなら、Sykes著"ProfScam"がこれまた辛辣である。



Profscam: Professors and the Demise of Higher Education
作者:Charles J. Sykes
出版社/メーカー:ペーパーバック
発売日:1989-12
メディア:St Martins Pr
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大学教授調書―手抜きが横行する大学教育
作者:チャールズ・J. サイクス
出版社/メーカー:単行本
発売日:1993-04
メディア:化学同人
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通信教育で博士号がとれる

 アメリカには、修士号はおろか博士号まで通信教育で授与する大学がある。例えば大ベストセラー"Men are from Mars, women are from Venus"シリーズの著者として知られるJohn Grayは、Columbia Pacific University(CPU)の通信コースでカウンセリングの博士号をとったそうである。なお、このColumbia Pacific University(最近閉校されたそうだが)というのは、もう一人のベストセラー・ライターBarbara de Angelisの出身校でもある。
 このお二人はいずれも大学や研究機関に所属せず独自の事務所を構えてマスコミや講演、講習会といった場で活躍している。ただし、将来研究者として大成したいという方にとって通信教育でとった博士号がどの程度助けになるかは正直なところ筆者には判断がつかない。(因みに、通信制の大学院はオーストラリアの方がさらに充実している。)

 別にお勧めするわけではないが、「Gray, de Angelis両氏がどんな本を書いているか書評だけでも見たい」という方のために、以下に代表的な著作情報へのリンクを載せておく。日本アマゾン掲載の読者評は概して好意的だが、英語版の方はもっとずっと辛辣な(星が少ない)書評を含んでおり、お二人の学位への評価やCPU閉校の経緯についてもコメントされている。See all customer reviews...(ページの下の方)をクリックしてCustomer ReviewsでLowest Rating Firstを選ぶと、酷評ばかりをまとめて読むこともできる。



ベスト・パートナーになるために―男と女が知っておくべき「分かち愛」のルール 男は火星から、女は金星からやってきた
作者:ジョン グレイ
出版社/メーカー:文庫
発売日:2001-05
メディア:三笠書房
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http://www.amazon.com/gp/product/0060574216/qid=1141540348/sr=1-1/ref=sr_1_1/002-3992966-4573614?s=books&v=glance&n=283155


男と女の心が底まで見える心理学―愛される理由、愛されない理由
作者:バーバラ アンジェリス
出版社/メーカー:文庫
発売日:1998-09
メディア:三笠書房
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http://www.amazon.com/gp/product/0440215757/qid=1141538285/sr=1-1/ref=sr_1_1/002-3992966-4573614?s=books&v=glance&n=283155

 因みに、通信制の大学院はオーストラリアの方がさらに充実しており、非常にランクの高い大学の学位も取得可能である。こういった制度を利用すれば日本にいながらにして海外大学の博士号がとれることにもなる。

日の本「博士」ことはじめ

 日本の大学の場合、人文系の博士号(特に文学博士)の敷居は北米とはくらべものにならないぐらい高い。有名な話なのでご存じの方も多いと思うが、夏目漱石が東京帝国大学の博士号を断わったのが原因なんだと。ところが、理系の場合は寺田寅彦があっさり博士号をもらってしまったので、それ以来わりあいスムーズに学位が出るのだそうである。(後進のことを考えると、変に格好をつけて辞退するのも考えものですなあ。)

「論文博士号」はない

 北米圏には、学外者が自力で書き上げた論文を大学に提出し、審査のうえ博士号を授与してもらうという制度はない。博士号を得るためには必ずどこかの大学の博士課程に入学しなければならないのである。
 もっとも日本でも、論文博士制度を廃止しようという動きがあるらしい。確かに大学の工科系講座が(資金的に)お世話になっている企業への御礼の意味を込めて開発部長に論文博士を安売りするというような悪習もあるやに囁かれている。
 しかし一方では、50歳を過ぎてからカルチャーセンターで学んだ古文書解読を皮切りに独自の視点で日本近世史研究に取り組み、ついには独創的な研究書を書き上げたうえ70歳で論文博士号を取得した立花京子氏のようなサクセスストーリーもある。



信長と十字架―「天下布武」の真実を追う
作者:立花 京子
出版社/メーカー:新書
発売日:2004-01
メディア:集英社
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信長権力と朝廷
作者:立花 京子
出版社/メーカー:単行本
発売日:2002-05
メディア:岩田書院
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 それだけに、何でも欧米に合わせることだけをよしとしてせっかくの伝統ある制度を一挙に廃止してしまうことには疑問を感じる。各大学で独自に論文博士を授与することにより上記のような弊害が生じているならば、学位授与機構のような独立した機関に限って論文博士認定ができることとし、実際の審査は必要に応じて大学教授など専門家に委嘱することにしてはいかがであろうか。工業大学に勤務している英文学者など自大学では博論審査に携わる機会のない方も、こういう機関を通じて学位認定に参画していただければ、高等教育界のリソースを最大限に活用することが可能になると思うのである。

学部生は冷遇される

 履修科目登録・寮の部屋の割り当て・図書館の利用規則・財政援助など、色々な意味でundergraduate studentはgraduate studentにくらべて冷遇されているように見える。それに、undergraduateの科目の方がgraduateよりも易しいかといえば、かならずしもそんなことはない。人文系はおろか、computer scienceのような分野ですら、大学院の科目の方がAをとりやすいという話をよく聞く。(Undergraduateの科目は概要を伝えるために「幕の内弁当」よろしく広範な領域をつまみぐいの駆け足でカバーする傾向があり、成績考査も「浅く広く」の短答型テストによることが多いので、じっくり型の人には向かない。)すでに日本で学士号を持っているなら、大学院からはじめるのが正道だろう。(大学院に入学してから、"pre-requisite"といわれる学部生むけの基礎コースを履修することもできる。)

教科書は英語

 日本の大学だと学部課程でも英語やドイツ語、フランス語の文献購読を課することが珍しくないが、アメリカでは大学院でも、かなり特殊な専攻分野でない限り、専門科目の勉強は英語だけで済ますことができる。ただしアメリカでも、文化系の博士号取得の要件の一つとして1〜2の外国語に習熟していることを要求する大学はまだかなりある。(これにも批判がないわけではないが、昔からの伝統でそう簡単には変えられないらしい。)

全世界が人材源

 「アメリカは移民の国」というのは単なる建国当時の歴史的な経緯だけではない。アメリカの国力が200年余にわたって順調な発展をつづけてこられた原動力は、労働力、あるいは人材を移民という形で海外から豊富に調達し続けることができたからでもある。

 この伝統は今日でもすたれていない。ほとんど全世界から留学生を受け入れ、その精鋭をブレーンとして残すことによって、アメリカは世界一の科学技術力を維持することに成功しているのである。イギリスを含む欧州諸国からアメリカへの科学技術者流入は第一次世界大戦のころからすでにはじまっていたが、1930年代以降、ナチスの迫害を逃れてユダヤ系科学者がドイツをはじめとするヨーロッパ大陸諸国から大挙アメリカに移住したのが特に大きな契機となった。いまや、アメリカ生まれの自国民だけに頼っていてはアメリカの科学技術水準は維持できない。その証拠に、MIT、UC Berkeleyなどの一流工学部の大学院はのきなみアジア系学生がびっくりするほど多い。("MIT= Made In Taiwan"という駄洒落があるぐらい)。

 戦後アメリカが世界の頭脳を吸引する態勢を確立したことを反映して、アメリカのノーベル賞の受賞も激増した。1901〜44年の自然科学三賞(物理学、化学、医学・生理学)受賞者135人の国別うちわけを見るとアメリカからは1割強の18人に過ぎずドイツ(35人)、イギリス(22人)の後塵を拝しているが、戦後になると1945〜91年の受賞者275人のうち、何と過半を占める140人がアメリカから輩出しており、イギリス(40人)やドイツ(25人)を遥かに引き離している。(『読売新聞』1991年10月23日「検証・日本人とノーベル賞」)。

 現に、アメリカが取得したとされているノーベル賞の中には外国生まれの研究者への授賞もかなり含まれている。一例をあげると、1983年に恒星の進化に関する研究で物理学賞を受賞したS. Chandrasekhar(University of Chicago)はインド生まれで、受賞理由の基盤となるブラックホール形成の理論はイギリスのケンブリッジ大学で大学院生として修行していたころにあげた業績である。(これがアメリカへの授賞とみなされるのは、Chandrasekharが1953年にアメリカ国籍を取得しているからである。同様の理由により、2008年に物理学賞を受賞した南部陽一郎も「アメリカ人」とカウントされる。)それだけの頭脳を世界中から集められることこそ、アメリカの人材帝国主義の底力だとも言える。

 このように、優秀な頭脳を国外から導入して研究の場を与え成果をあげさせたことが、さらに大きな波及効果を生み出した。大物科学者を多数招き入れたことによってアメリカの学界の研究水準そのものが飛躍的に高くなり、その薫陶を受けた若い科学者がアメリカの大学からも続々と育つようになったのである。

 この圧倒的な科学技術力がアメリカの経済・軍事・政治力を押し上げる主要な原動力の一つともなったことはいうまでもない。奨学金を大盤振舞したり外国人を平気で重役や学科長にする太っ腹ぶりも、国全体の利益を考えればちゃんと算盤にかなっているのである。

 因みに、外国生まれの帰化移民一世の中で今までのところ「出世頭」は国務長官にまで登ったHenry Kissinger(ユダヤ系ドイツ人)とMadeleine Albright(ユダヤ系チョコスロバキア人)であろう。アメリカで生まれた移民2世になると誕生と同時にアメリカ国籍が与えられ、大統領選挙の被選挙権も含めて完全なアメリア人として扱われる。統合幕僚本部長(米軍人の最高位)や国務長官を勤めたジャマイカ系移民2世のCollin Powellなど、枚挙に暇がない。ご存じの通り、一時期Powell将軍には次期大統領の有力候補という呼び声すらかかった。一方、現在の日本で韓国生まれやイラン生まれ一世の帰化日本人が外務大臣になることが想像できるだろうか?これができなければ、日本がアメリカ並みに「国際化」したとは言えまい。

 アメリカに居残らず本国に帰った卒業生も、知米派の知識人(必ずしも全員が親米ではないが)としてアメリカにとっては貴重な国際ネットワークを形成している。

 いうならば、アメリカの潜在的な人材プールは、(自称)社会主義国も含めて40数億人いるといえよう。そのシステムの中に全く組み込まれていないのは、今や北朝鮮ぐらいではないだろうか。一時期ほど派手ではないにせよ、この人材輸入はなお続いている。しかもこれだけ移民の力に頼りながら、何でも移民の好き勝手にやらせるというのではなく、細部には口出ししないにしても全体としてみるとアメリカ独自の政策目標達成のために巧みに人材を活用している。こういう巧妙な社会システムを誰か特定の頭のいい人間がデザインしたのではなく、試行錯誤の中から自ずとできあがってきたというのが凄いところである。 かたや一億人余からリーダーの人材をやりくりしている日本とは、やはり土俵が違うという気がする。(「このあたりの基本システムから大改革しないと、日本が対米技術戦争を戦い抜くのは至難の業です」と、一応patriotのつもりでいる筆者としてはあたりまえのことを書かずにはいられない。)

移民一世は大統領になれない

 アメリカ大統領になれるのは産まれた時からのアメリカ国籍保持者に限るという規定があるので、移民一世が大統領選挙に出ることはできない。一方、日本にはこういう規定がないので帰化一世でも内閣総理大臣になることが法的には可能である。

ユダヤ人迫害の代価

 戦前にくらべて戦後(1991年まで)のノーベル賞(自然科学部門)取得数が激減した国は、

ドイツ(35人→25人)
フランス(16人→8人)
オランダ(8人→2人)
オーストリア(7人→2人)
など、いずれも第二次世界大戦中ナチスの支配下にあった地域である。戦後になって各部門のノーベル賞が一度に複数の研究者へ授与されるケースが増え、その分だけノーベル賞の「パイ」そのものは大きくなったことを考えにいれると、これら諸国の凋落ぶりが余計に目立つ。この落差は戦闘の惨禍や戦後の経済事情だけでは説明しきれず、どう考えてもユダヤ系の科学者を多数失ったことが響いているとしか思えない。現に、大戦中もドイツ軍の占領を免れた国は、

アメリカ(18人→140人)を筆頭に
イギリス(22人→40人)
スウェーデン(6人→9人)
スイス(5人→8人)
など、むしろ戦後になってから受賞者数を伸ばしている。ユダヤ人迫害は、科学技術面だけをとってもヨーロッパにとって自傷行為であったようである。

日米ソはドイツの弟子

 西澤潤一教授の『「技術大国・日本」の未来』(朝日文庫)によれば、アメリカは人材をドイツに仰いだだけでなく、チームプレーを重視する組織的な科学技術研究の進め方そのものもドイツから学んだのだそうである。ドイツはかつては小国分立状態で産業・技術の基盤整備も遅れていたが、19世紀の後半から20世紀初頭に至って国をあげてのインフラ充実と組織の力で一気に先進国フランス、イギリスを追い抜いた。そのドイツの成功に学ぶことによって、アメリカも超大国の地位についた、というわけであろう。
 そう言われて思い当たるのが、project teamと称して特定の目標めがけて多人数のResearch assistantsやpost-graduate fellowsを動員し、集中的にデータを集めたり分析・開発を進めるアメリカの研究室のやや軍隊的な効率性である。その源流がドイツにあるといわれれば、確かに合点がいく。(逆に、そういうやり方が通用しない生粋の人文科学の世界では、アメリカはまだまだ「本家」イギリスにかなわない。)
 明治日本がビスマルクのドイツ帝国に習って国づくりを進めたのはご承知のとおり。また、ロシア革命後のソビエト陸軍建設を助けたのもワイマール共和国時代のドイツ軍顧問将校団である。こうなると、日米ソは全てドイツの弟子であるという言い方をすることもできるわけである。


ドイツ参謀本部
作者:渡部 昇一
出版社/メーカー:文庫
発売日:1986-10
メディア:中央公論社
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 なお、アメリカやドイツの科学研究がイギリスやフランスにくらべればチームワークを重視するとはいうものの、日本よりはずっと個人の独創を重視すると、西澤潤一教授は但し書きをつけておられる。『「技術大国・日本」の未来』は全編まさに憂国の至情ほとばしる感のある本で著者の気迫に圧倒されてしまうが、光通信技術の創始者としてノーベル物理学賞の有力候補に何度もあがったという世界的科学者にして日本電子工学界の頂点・東北大学の総帥(元総長)の著作だけに、外野席からあれこれ言っている評論家の著書とは格段に違う迫力がある。21世紀の日本の科学技術開発やハイテク企業経営を背負って立とうという気概のある方には、一読なさる価値があろう。

「技術大国・日本」の未来
作者:西澤 潤一
出版社/メーカー:文庫
発売日:1993-09
メディア:朝日新聞
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極端を受容する

 周囲を圧倒するような優れた才能を持った方、および肢体不自由のような重いハンディを持った方にとっては、日本よりもアメリカの学校の方が過ごしやすいのではないだろうか。特殊な才能を持った子供たちを伸ばすための施策(例えば、優秀な高校生は、大学の授業に通うことができる;コロンビア大学には、優秀児教育の専門家を養成する修士コースまである)も、障害者を受け入れる為の施設や啓蒙もともにアメリカの方がずっと進んでいる。この両者への配慮は一見相反するもののように見えるかもしれないが、実は、「みんなが同じようにふるまう必要はない。」という文化的な懐の広さ(ある意味では、つきはなし)に深く根差しているように見える。

 概してアメリカは弱肉強食社会で弱者救済のための福祉制度が遅れていると思われている。確かに医療保険などではそういう面があるのは事実だが、社会の受容性という点では、日本の方が劣っている点も多いように思う。筆者が1988年の夏にミシガンにある学生の合宿ハウスのようなところで一夏過ごした折も、車椅子生活の学生が一人参加していたが、ハウスの会議の際、「火事になったら誰がその肢体不自由の学生を背負って脱出させるか、担当を決めておこう」という提案がまだ二十歳前の青年から出て感心させられた。一方翻って、車椅子用のスロープが出入り口についている銀行や郵便局が日本の街にいくつあるか、外出したついでに数えてみられたい。
 人種偏見が根強く残っている地域もあるが、日本での陰湿さに比べれば、アメリカの方がまだしも、という気もする。日本にくらべるとアメリカの人種差別は暴力的という印象があるが、映画『夜の大捜査線』のような極端なことがおおっぴらに行われるような例はさすがに少なくなったようである。



夜の大捜査線
俳優等:クインシー・ジョーンズ, ロッド・スタイガー, ノーマン・ジュイソン, シドニー・ポワチエ, ウォーレン・オーツ, マット・クラーク, スターリング・シリファント, スコット・ウィルソン, ハスケル・ウェクスラー, ビア・リチャーズ, リー・グラント
ソニー・ピクチャーズエンタテインメント
発売日:2006-02-01
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 同性愛者の権利も、日本よりはずっと広く認知されている。特に、気風がリベラルな西海岸やハワイでは同性愛を公言している大学教官も珍しくないし、そういう人が学界の重鎮であったり大学内の要職に就くこともとりたてて奇異とはみなされないようである。(ただし、南部へ行くと多少雰囲気が違う。)

人種差別考

 日米とも、何らかの意味で人種差別が存在することは残念ながら認めざるをえないが、欧米の人種差別は往々にして一種のideologyであるという印象を受ける。白人優越論者を堂々と名乗る人も中にいるが、そういう陣営はそれなりに宗教・哲学(らしきもの)などで理論武装しているものである。かたや、日本人の中に人種差別意識があるとすれば、それはideologyというよりsentimentではないだろうか。日本でも本屋に行くと『ユダヤ人なんとか』、『フリーメーソンなんとか』なんて本がならんでいるが、あの手の本はほとんどが欧米の文献の孫引きで、オリジナリティーは乏しいそうである。

「左」には厳しいアメリカ社会

 異分子を受け入れるとは言っても、いわゆる左翼(「リベラル」ではなく)、特に共産主義を信奉する人への風あたりの強さは日本の比ではない。冷戦終結までは、特にその傾向が顕著だった。とりわけ保守的な南部でその信条を表明するとしたら、それなりの覚悟がいる。大企業の管理職社員が個人的にマルクス主義を信奉していてその信念を公言するという例も、アメリカではいまだ聞いたことがない。(これはいわゆる白人社会に限らず、多くの少数民族の間でも大同小異である。)

 ただし、大学教授などにはそういう人もいて、それが結構通用する。特に文学研究者の間では、マルクス主義の影響力が無視できないようである。(中でもとりわけ羽振りのいいマルクス主義/レーニン主義文学者の事例が、Sykesの著書ProfScamに紹介されている。連邦政府の研究基金によってマルクス主義の文学批評研究がなされるのも、驚くべきことではないらしい。)

 アメリカの基準では「極左」とすらいえるNoam Chomsky 博士が産学軍複合体の総本山MITの言語学科の看板教授として何十年も安住しているのも、よく知られている。それどころか、 Chomsky の初期の主著"Aspects of the Theory of Syntax"が出版される元手となったのは、機械翻訳システムの開発(軍事目的)に望みを託して三軍が拠出したコンピューター研究助成金であった。やはり、大学の中というのは温室のようである。



Aspects of the Theory of Syntax. (Massachusetts Institute of Technology. Research Laboratory o)
作者:Noam Chomsky
出版社/メーカー:ペーパーバック
発売日:1969-03-15
メディア:Mit Pr
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 考えてみると、 Chomskyの反体制的な言辞がある程度注目を集めその政治的発言を集めた本が売れるのは、彼がMITの教授で世界的な言語学者という看板を背負っているからこそであるし、 一方、体制側としては Chomsky一人が何を言おうとそれで体制の土台骨が揺らぐわけではないから、とりあえずは鷹揚に構えてもいられる。意地の悪い見方をすれば Chomsky を抱えておくことで、体制側が自分達の懐の深さをデモンストレーションすることが可能になっているとも言える。(いかに声高にアメリカの「自由と民主主義」の欺瞞を叫ぶ人でも、 Chomskyに相当するような反政府・反体制の論客に自由な発言を許すほどの太っ腹さを反米諸国が持ち合わせていないことは認めざるをえまい。)しかも、Chomskyの舌鉾がしばしば民主党リベラル派に向けられ「共和党も民主党も所詮は一つ穴のムジナ」と力説していることは左派的傾向のある有権者を棄権や当選する見込みのない諸派候補への投票に向かわせ、結局は共和党の勢力維持に貢献しているともいえる。そういう意味では両者の関係は「共存共栄」なのかもしれない。


メディア・コントロール―正義なき民主主義と国際社会
作者:ノーム チョムスキー
出版社/メーカー:新書
発売日:2003-04
メディア:集英社
Wiki

1950年代の「赤狩り」への反省もあって、アメリカの大学が教員の思想チェックには非常に消極的になっていることも事実である。

赤狩り時代の米国大学―遅すぎた名誉回復 (中公新書)
作者:黒川 修司
出版社/メーカー:−
中央公論社
発売日:1994-07
メディア:中央公論社
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ともあれ、これだけアメリカの支配体制を攻撃しているのだから当然Chomskyへの反論本も出ているだろうと思って探してみたが、引用の誤りなどを指摘した記事が雑誌に載ったことはあってもまとまったChomsky批判本は見つからなかった。
http://en.wikipedia.org/wiki/Criticism_of_Noam_Chomsky

「反論できないほど完全無欠な体制批判なのだ」ととるか、それとも「体制派にとってはさして痛くもない批判だから反論する必要を感じないのだ」ととるかは、解釈が分かれるところ。むしろ、「まじめな左派」とおぼしき方が手厳しいChomsky批判の記事を公開している。
http://www.mekong.net/cambodia/chomsky.htm

日本ならさしずめ『週刊新潮』あたりがとびつきそうなゴシップネタも、Webに載っていました。
http://www.hoover.org/publications/digest/2912626.html

 ご参考までに、アメリカの「右」対「左」(あるいは「保守」対「リベラル」)の軸は日本の場合とぴったり重なるとは限らず、海外派兵反対を主張している論客の方が派兵推進派よりも「右派」だったりすることもある(「右-左の対立軸はどこに?」)。

アメリカにも「いじめ」はある

 アメリカ社会が日本にくらべれば異分子に寛容な面があることは確かだが、「いじめ」が日本だけの現象だと思ったら大間違い。アメリカの高校でいじめに会ったという学生に何人も話をきいた。(いじめにあいやすいのは、アニメが好きだとか、いわゆる「おたく」タイプらしい。)アメリカの大学の教授同士も、陰微に足の引っぱりあいなどをやっているのである。

 ただし、アメリカでの「いじめ」は一部の不良グループが実行犯である(映画『カラテ・キッド』を思い出されたい)。クラスの成員の多くが特定の生徒を集中攻撃するような話はあまり聞かない。



ベスト・キッド
俳優等:ラルフ・マッチオ, ノリユキ・“パット”・モリタ
ソニー・ピクチャーズエンタテインメント
発売日:2004-06-23
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 しかし、何でもやるとなったら徹底するのがアメリカ流で、ナイフやチェーンはおろか、校舎の中で実弾がとぶこともある。そういえば、バットを握って仁王立ちの校長先生の写真が『タイム』の表紙を飾ったこともあった。

勉強法のイロハを教えない

 アメリカでは、小学校〜高校で講義ノートのとり方や単語カードの作り方のような基本的なテクニックをしっかり教える慣習が根付いておらず、旺文社や学研の進学雑誌の類もない。それを埋め合わせるために大学にはいってからそういうテクニックをいろいろ学ぶことになっているようで、大きい大学ではその訓練の為の専門の部局もある。大学の本屋に行くと『大学での学び方』みたいな本がならんでいるが、図書館の利用方法や論文の書き方などの章をのぞけば、大体は日本の中高生向けの類書と大差ない。筆者の印象では日本のものの方が詳細にわたるテクニックを網羅しているようである。しかし反面、日本のものは複雑すぎて常人にはとても実行しきれないものが多いようにも思う。

 余談ながら、米国の小学生は掛け算の九九を口調で覚えるということをしない(あるいは、できない)から、九九を習得するまでに時間がかかる。初等・中等教育段階で日本ほどには記憶に重きをおかないこともあるが、まず英語の音韻体系そのものがこういう語呂併せに不向きなのである。日本なら中高生の常識となっている語呂併せによる数字記憶法(「いよっ、くにが見えた。」=コロンブス艦隊の西インド諸島初到達1492年、の類)も、英語圏ではほとんど知られていない。
 かといって、アメリカ社会といえども暗記がまったく不必要というわけではない。特に医学部に進んだりしたら、膨大な文献をひたすら覚えまくらないと卒業はおぼつかない。セールスマンなど、記憶力がものをいう職種もたくさんある。

 そこで英語でも数字の語呂併せができる方法を開発した人がいるが、それはまず0〜9の数字をそれぞれ何らかの子音と結び付け、次にその子音を含んだ単語を想起することで記憶のカギとするというものである。まず数字と子音の結び付きそのものが恣意的で苦しいコジツケが多い上、そこから出てきた子音の連鎖に対応する単語を思い浮かべるのもおおごとである。母音を無視して子音だけに着目するのも日本人からみると不自然で、これを見た時は、英語を母語とする人達が気の毒になってしまった。

 とにかく、アメリカの大学でも特に初級のコースでは受験勉強型の学習が要求されることがあるので、それに慣れたアジア人学生(日本人を含む)は有利な面があるといえよう。

知られざるエリート高校

 日本では、アメリカの高校の自由放任的な面だけが強調されているが、実はアメリカにも日本の進学校顔負けの特訓をほどこす、prep schoolsという高校があり、Harvard, Yaleなどの名門大学へ卒業生を続々と送り出している。たとえば首都Washington, D. C. 市内にある、さるprep school には、大物政治家の子弟も大挙してかよっている。

 "Prep school"を直訳すれば「予備校」だが、もちろん日本の受験予備校とは全く異なる。中味は文字どおり朝から晩までのスパルタ教育らしいが、こういうところは単なる受験テクニックを教えるのでなく、若年にして科学・哲学・歴史・芸術・教養の真髄を伝える本物のエリート教育を施すのだそうである(いうならば、欧州流の貴族教育である)。こういう高校では大学初級ぐらいの内容はすでに授業でカバーしてしまうので(講師陣も、なまじの大学教授顔負けの優秀な人材をそろえている。博士号を持った高校教師も珍しくないとのこと)、卒業生は大学に入学するやいなやいきなり3〜4年生向けの授業をとりはじめることすらある。



アメリカ 最強のエリート教育 (講談社+α新書)
作者:釣島 平三郎
出版社/メーカー:新書
講談社
発売日:2004-12-21
メディア:講談社
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アメリカのスーパーエリート教育―「独創」力とリーダーシップを育てる全寮制学校(ボーディングスクール)
作者:石角 完爾
出版社/メーカー:単行本
ジャパンタイムズ
発売日:2000-04
メディア:ジャパンタイムズ
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レイコ@チョート校―アメリカ東部名門プレップスクールの16歳 (集英社新書)
作者:岡崎 玲子
出版社/メーカー:新書
集英社
発売日:2001-11
メディア:集英社
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 因みに、筆者の母校University of Illinois, Urbana-Champaign の付属高校 (通称Uni-High)もいわばそんなprep schoolsの一つで、そこからIllinois大学の日本語の授業を受講しに16歳の少女が通ってきていた(高校生が大学の授業を取りにくるのも、アメリカではとりたてて珍しいことではない)。筆者はteaching assistantとしてその学生を教えたことがあるが、最優秀の成績でパスしたと記憶している。 Uni-High(1学年の定員は100人以下である)の卒業生から、過去に3人のノーベル賞科学者が出ていることも付記しておこう。

Liberal-arts college

 Liberal-arts collegeという存在も、案外日本人に知られていない。これは、独自の大学院課程を持たず、undergraduate 教育のみに専心する小規模4年制大学のことで、ほとんどが私立である。(ただし、特定の分野に限って小規模な大学院課程を持っている場合はある。)
日本人がこういう大学に進むこと自体が珍しいので日本ではあまり注目されていないが、Amherst CollegeやSwarthmore Collegeに代表される上位校になると学生の質(SATの「偏差値」も含めて)は超一流の総合大学と何ら遜色ない。教授陣も大学院生の指導に手をとられない分、密度の濃い訓練を学部生に施すことになる。優秀な学部生が、在学中に教官と共著論文を発表する場合すらある。
こういう大学の学士号をひっさげて総合大学の大学院に進むのも、エリートコースの一つである。敢えて日本で例を探せば、戦前の「一高」や「三高」などの旧制高校にやや近いものがあるのかもしれない(ただし、Liberal-arts collegeにもやはりピンからキリまであり、下の方はかなりいい加減なところもあるらしい。)



リベラルアーツ・カレッジ―繁栄か、生き残りか、危機か
作者:デイヴィッド・W. ブレネマン
出版社/メーカー:単行本
発売日:1996-08
メディア:玉川大学出版部
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わからせる授業

 筆者の日本での出身校も含めて、日本の大学の心理学科では1年生から線形代数を教えて2年生の基礎実験では早くも因子分析などの多変量解析を紹介するというのが定番のコースになっている。一方、北米の心理学科では因子分析を本格的に教えるのは大学院も上級のコースになってからで、大抵は選択科目になっている。したがって、アメリカ人の教授や学生に「日本の大学では19歳の学生に因子分析を教える。」というと、「日本の大学は進んでいる。」と感心してもらえるが、実際には、日本の大学の授業を聞いてそれだけで因子分析が充分理解できた学生はほとんどいないのではないだろうか。

 筆者が日本の大学で心理学のコースを受講した時も、先生が何やら難しい線形代数の式を黒板いっぱいに書いていたが、それが何を意味しているのか皆目わからないままコースが終わってしまった。(数学の得意な級友は楽々とこなしていて、羨ましく思ったものである。)もっとも、先生もその点は先刻ご承知で、必修科目の場合数学的なセンスのない学生には「お情け」のパスをくれるのが暗黙の了解、あるいは慣例になっている。日本の大学では往々にして「コースを履修した」ということと「内容が理解できた」ということは全く別のことなのである。

 その点、進度は些か遅くてもアメリカの大学の教育学部や心理学科の統計学のコースは概念をしっかりつかませることを重視していて、理解を助けるために数式だけでなく図がふんだんに出てくる教科書が多い。概念を感覚的、直観的につかませることに重きをおいているわけである。(これは、数学が得意でない、いわゆる文系タイプの学生には特に重要である。)また、筆者がアメリカでとった統計学のコースは宿題や練習問題もよく練ってあって、それを解く過程でおのずと必要な概念を咀嚼せざるをえないように構成されていた。したがって、北米の大学の統計学のコースにしっかりついていけば、おのずとそこで学んだことを自分の研究に使う準備ができるわけである。

 因に、北米の中学高校で教えている数学のレベルは概して日本にくらべて格段に低い。少しレベルの低い大学に行くと、負数同士をかけあわせると正数になることを知らない学生なんてうようよいるそうである。これが、数式だけに頼らず統計学の概念を伝えようというアプローチを生んでいる一つの要因であろう。

「点とり虫」が多い

 授業がかなり厳しいせいか、アメリカの大学生の大半は点数に直結しない課外学習に力を入れる気力も余裕もないようである。教科書以外のマトモな教養書を常時かばんに入れて持ち歩いている学生は存外すくない。むしろ日本の大学生の方がサークル活動や読書を通じて、授業を離れた勉強をしているような印象を受ける。

 もっとも「オタク」というのはどこにもいるもので、イリノイ大学にも日本のアニメビデオを見る会があって活発に活動していた。コンピューターラボに延々と居座って何やら余人には窺い知れない達人技の限りを尽くしている学生も、必ず何人かいた。こういう中から明日のヤフー社やグーグル社が生まれるのであろうか。

この恐るべき素直さ

 Ann Peters博士といえば、University of Hawai'iの言語学科の正教授で言語習得理論の世界的権威であるが、彼女はある年一学期の間、毎週決まった時間に心理学科の建物へ出向いて新任のassistant professorの授業を聴講していた。この新任教官の研究に格別興味があってのことである。この教官というのが大学院を卒業したばかりでPetersから見れば弟子か孫弟子のような年齢、しかもPetersが聴講していた授業というのは大学院生むけのものではなく、学部の3年生向けの入門初級コースだったのである!

 これほど極端ではなくても、教官同士がお互いの授業を聴講しあうのは珍しいことでも何でもない。University of Illinoisの認知心理学の泰斗George McConkie教授も、同大学にconnectionismの専門家が赴任してきてセミナーを開いた時は、自分のResearch assistant達と一緒にそのセミナーを受講して、基礎から勉強していた。実習の最中にわからないことがあって同教授が自分の研究室の assistant達に相談する光景も目撃したことがある。

 研究の必要から新しい言語を勉強しはじめた大学教授が語学の正規の授業を一般学生にまじって受講し、テストまで受けるのも珍しいことではない。そのクラスを教えているteaching assistantが、たまたまその教授の学問上の弟子だったりすることもある。日本ではとても考えられないことだが、アメリカ人はこのあたりを全く照れもせずにやってのける。「相手の方が自分よりも、この問題についてはよく知っている。」と判断すれば、教えを乞うのをいとわない素直さは、お見事という他ない。ここまで素直になれるというのは恐ろしいと思う。

もっとも、悪くとれば、人間を情報源として道具視している、という見方もできるわけだが。西部開拓時代の開拓民も荒れ地で生き抜くノウハウの多くを先住民から学んだわけだが、だからといって両者の間に友好的な関係が持続したかというとそれは別問題である。

大学教官の位階制度

 上から下へ、


(Full) professor
Associate professor
Assistant professor

Lecturer
Instructor

という階梯構成が、多くの大学で採用されている。日本のような講座制はないので、assistant professorが特定のassociate professorに個人的に仕える、というようなことは滅多におこらない。

 博士号を取り終わったか、もうじき取れる見込みの人間が最初に就職する時は、通常assistant professorからはじまって、 → associate professor → (full) professor の順を追って昇進していく。Assistant professor にはtenureはなく、状況によってはクビを切られる心配がつきまとう。(Tenureとは「大学がクビを切らない」という終身雇用保証みたいなものである。)身分の安定度という点からいえば、tenureのないassistant professorは日本でいえば助手より上だが常勤講師よりは下というぐらいである。【ついでに、日本の「助教授」/「准教授」をあえて英訳すればAssociate professor、「教授」がProfessorということになろう。】

 もし、このassistant professorのポジションがtenure-trackだと、通常採用後6年目にtenure審査があり、それにパスすればtenureがつく。(Tenureを与えるのと同時にassociate professorに昇進させる大学が多い。)つまり、tenure-track positionというのは、「順調に業績をあげれば将来審査の上、tenureがもらえる可能性があります。」という意味である。実績に自信があれば、early tenure といってtenureの審査を早めてもらえる場合もある。(ただし、大学によってはearly tenureの審査を受けて失敗した教官には2度とチャンスを与えないというところもあるから、よく規定を調べておかないと危険である。)逆に出産や病気で研究が中断した場合や途中で休職して長期研修を受けた場合など、特例としてtenureの審査を6年目よりも遅らせてもらえる場合もある。

 Tenureがとれれば、その次の年にsabbatical leaveをもらって半年または一年間は給料をもらいながら好き勝手なことができる。Tenureがある先生は、その後も7年に1度ずつsabbatical leaveをもらうことができる。この期間に他所の大学へ行って研究をする教授も多い。かつては修士レベルの学歴だけでtenureをとってassociate professorに昇進する人もいたが、今日では極めて異例である。

 逆にtenure の審査が不合格であった場合、その教官は1年後に大学を去らねばならない。もともとは、大学が長期にわたって教官をtenureのない不安定な待遇のままにとどめおいて搾取するのを防ぐため「7年以上同じ大学に勤めている教官にはtenureを出さなければならない」という規定を設けることを教官の労働組合が要求したことからはじまった制度であるが、大学側がそれを受け入れた代償としてTenure審査の制度がはじまり、tenureが取れなかった教官は逆に7年目を最後に大学を去らねばならない、という厳しい処置を招いているわけである。

 大学としては同じ人間がずっと同じ仕事を担当していれば継続性が保てることは確かだが、あまり業績をあげていない教官ならtenureの審査に落とすことによって追い出し、かわりに新しい血を入れることができる。したがって一流大学であればあるほどtenure を取るのは難しい傾向があり、assistant professorたちは血眼になって研究業績をあげることに努める。 また、単に学問的な業績や教える巧拙だけでなく他の政治的な要因でtenureがとれなかった先生も多くいるようである。人件費を抑えるためにtenureの数を制限している大学もあるから(当然ながら、assistant professorよりはassociate professorの方が給料が高い)、たまたま巡りあわせが悪いといくら実力と実績があってもtenureがとれないという場合もありうる(Chronicle of Higher Educationには、そういうゴシップ、スキャンダルの類がよく載っている)。こじれると、tenure審査の結果を不服として訴訟沙汰になる場合すらある。

 Tenure制度が正常に運用されていれば、衆目の一致するところ学問的にも教育面でも順調に成果をあげている教官は確実にtenureがとれるはずだが、実際には大方の予想を裏切る番狂わせがしょっちゅう起こるような大学もある。そういう大学の教官は、tenure reviewを受けている間中、常に戦々恐々として過ごさねばならない。

 なお、その他、tenure-trackでない("visiting"とも言う) assistant professorもいる。そういう人はtenureの審査を受ける機会もなく、いずれは他所へ移るという前提で雇われているわけである。(ただし、tenure-trackでないポジションがtenure-trackのポジションに切り替わる場合もある。)まれに、 visiting associate professor をおく大学もある。

 Associate professorの上は (full) professorであるが、full professorの方が給料がいいだけで、それ以外にはassociate professorとほとんど実質的な差がない。Tenureがつくまでは学科長(Chairperson)になれないので、tenureをとりたてのassociate professorが学科長役をひきうけさせられる場合がよくある。(北米の大学の学科長というのは、必ずしもみんなが就きたがる役職ではない。特に小さい学科の場合、どちらかというと雑用係と思われて敬遠されることも多いようである。一時のようにどの大学でも軒並み予算カットが続くと、学科長は学部とヒラ教官の間で板ばさみになって、損な役回りでもある。)

 なお、外国人が州立大学の学科長(「管理職地方公務員」)を勤めるのは、珍しいことではない。反面、米連邦政府立の教育機関(軍の士官学校や国務省の語学研修所など)は米国籍のない者を決して常勤職に採用しない。

 さて、assistant professorの下はlecturerで、これは博士号を前提としていない。修士号をとっただけで就職する人の職階は、大概lecturerである(博士号を持った人でも、他に仕事が見つからない場合に臨時にlecturer レベルの仕事につく場合がある)。Instructorは、時間給でやとわれている非常勤講師の称であることが多いが、中にはフルタイムの常勤講師をinstructorと呼ぶ大学もある。

 まれに、lecturerレベルの人でも教育者として重要な貢献をなしたとみなされると、tenureに準ずる待遇を与える(つまり、クビにしないと保証する)大学がある。こういう融通のきく処置は、私立大学の方がとりやすい。Tenureがつかない限り、assistant professorと同じくlecturerも7年目を最後に大学を去らねばならない。(ごく稀に、lecturerにはこの制約がない大学もある。つまり、tenureがつかないまま、とりあえずは特に年限もなく大学にいられるわけである。しかし、学科の規模が縮小されたり大学が財政難になったりした場合、真っ先にくびを切られるのはこういう不安定な立場の人達である。)

 さらに、Harvard University にはPreceptorという職階がある。これは、外国語のコースの学年主任をする人のことで普通のLecturerよりは一段格上だが、tenure-trackではないので、7年後にはやはり大学を去ることが前提になっている。(ただし、「Harvardで教えていた先生なら是非自校に招きたい」というところは地方の中小大学を中心に多いので、Harvardを辞めた後で職に困ることはあまりないそうである。)

 なお、ある大学で既にtenureを得た教官が他の大学に移る場合は、移転先の大学でもはじめからtenureをつけてもらえることはほぼ常識とされている。講座制が主流の日本なら、某大学の教授がより「格」の高い大学の助教授として転出することも往々にしてあるが、北米では4年制の大学間でこういう降格移動を易々として受けるのは異例である。

 因みに、大学の事務職員はsecretaryと呼ばれている。(日本語でセクレタリー=「秘書」というと余程高度で機密性の高い業務を扱っているのかと思ってしまうが、北米では必ずしもそういうことはない。)不思議なことにこれまで筆者が会った学科配属のsecretaryは一人残らず女性である。こういう事務員はfull-timeとは限らず、part-time勤務も結構いる。

ことばのインフレ

 ただの事務員が"secretary"になってしまうことをはじめ、アメリカはことばのインフレも相当なものである。北米の大学のassistant professorは日本では専任講師にあたると思っておけばいい(身分の安定度ではそれ以下)。大学の教官に対して「〜先生」という意味で、相手がassistant professorであっても"Professor 〜"とよんでしまうこともある。論文を一本よんで短い批評をかくだけで"project"とよぶのもいかにも大げさである。アメリカ人の中にはやたらに"Great!"とか"Wonderful!"とかを連発する奴がいるが、文字どおりにとってその気で相手をすると疲れてしまう。こういうのに慣れるのも、文化適応の一環なのであろう。

 少し話がずれるが、修士課程に入学早々アメリカ人の級友が「俺のgirlfriendに会わせてやる。」というので「こいつ、高校生とつきあってるのか?!」とびっくりしたことがある---実際に会ってみたらオバサンだったので、2度びっくり。英語国民の多くも"boyfriend"、"girlfriend"はあまり適切な表現ではないと感じつつ、他にぴったりした言い方がみあたらないのでやむをえず使っている、というのが実態らしい。そういう意味では日本語の「主人」、「家内」という表現と少し似ている。Boy/Girlといえば、男子同窓会を英語で"Old Boys (OB) Club"というのに対し、女子同窓会の中には"Old Girls"というのを避けて"New Girls Club"と名乗るところもある。("Young Girls"を名乗るのはさすがに気がひけるのか?)

Affirmative Action (AA) とEqual Opportunity Employer (EOE)

もともとは人種や性別などによって差別してはイカン、という高邁な理想に基づいてはじまった制度だが、昨今いろいろと物議をかもしている。自分で詳細を書けるほど詳しくないので、とりあえずリンクを貼っておく。

学位へのステップ

修士号へのステップ

「フルコース」の標準メニューは次のとおり。ただし、修士課程の場合は修士論文を要求せずそのかわりに短い研究報告を提出させたり、論文のかわりに筆記試験だけだったり、逆に筆記試験がなかったりと、学科によって実際の運用はかなり異なる。外国人学生の場合、TOEFLの成績が悪いとこれ以外に英語研修のコースをとらされることもある。

必要単位(科目)の履修/Qualifying exam(総合筆記試験)合格
Preliminary exam(修士論文プロポーザル認可の口頭試問)
修士論文執筆
Oral defence(修士論文の口頭試問)
もし論文審査委員から合格の条件として書き換えを要求されれば、それに沿って論文を手直し
最終稿提出
卒業

この他に、修士時代に修士論文を書いていない学生に対してはそれに相当する論文を提出することを要求する大学もある。

もちろん、プロポーザルが認可される前に論文の準備をはじめても構わないのであるが、委員会がそれを認めなければ努力が無駄になってしまう。

博士号へのステップ

「フルコース」の標準メニューは次のとおり。基本的な流れは修士課程と似ている。この他に、修士時代に修士論文を書いていない学生に対してはそれに相当する論文を提出することを要求する大学もある。また、博士課程に在学している間に最低一回は学会で発表することを要求する学科もあったりする。

必要単位(科目)の履修/Qualifying exam(総合筆記試験)合格
Preliminary exam(博士論文プロポーザル認可の口頭試問)
博士論文執筆
Oral defence(博士論文の口頭試問)
もし論文審査委員から合格の条件として書き換えを要求されれば、それに沿って論文を手直し
最終稿提出
卒業


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